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逆引き字典

 岩波書店の『広辞苑・逆引き辞典』というのがあります。例えば「もどき」という語を引くと、雁擬きとかウメモドキとかいう語が出て来ます。逆引き字典は詩の世界でとても重要です。なぜなら詩家は韻字の前に来る用例を知りたいからです。清は満州族が漢民族を支配した国家でしたが、康煕帝・乾隆帝は漢民族文化を勉強し、当時世界最大の図書館の四庫全書を作り、古今の図書を揃えるとともに、詩のためには厖大な『佩文韻府』という逆引き字典を編纂させました。ここからポケット版『詩韻含英異同弁』が作られ忽ち詩人の必携書となりました。

 その使い方を実験してみます。南京の秦淮は唐以前の六朝時代から文化の中心でしたが、明の太祖はここに公営の妓楼街を作らせ、清代にも繁栄を保ちました。芥川龍之介、谷崎潤一郎、佐藤春夫、永井荷風らが訪ねています。しかし辛亥革命の後の中華民国、ことに中華人民共和国時代に入ると、女性解放の政策下その存在すら語られなくなりました。ところが最近この秦淮河周辺は文化観光地区として整備が進み、日本の吉原同様、昔の置屋の再現まで行われています。河の上には柳が垂れアベックがペダル船を漕いでいました。この風光を詠んでみました。

 まず龍之介は○○●、潤一郎は●●○で捻体を構成できるので「曾游妖筆龍之介,忽追文豪潤一郎。」という句を考えました。頷聯に使いましょう。「郎」を韻字にすると「陽韻」となります。そこで『詩韻含英異同弁』の「七陽」の部を開きます。すると陽、楊、揚、香、郷、光、昌、堂、章、張、王、房、芳、長、粧、常、涼、霜、蔵、場・・・・・といった字が並んでいます。その中から楊、郎、遑、長、康の五字を選びました。「楊」のところを見ると、「緑ー折ー遠ー|枯ー青ー蒲ー堤ー穿ー疎ー垂ー」と載っています。これは「ー」の部分に楊の字を入れれば、2字ユニットが出来ることを意味します。ここから「緑楊」を使い「橋畔妓楼隠緑楊」の起句を考えました。つぎに「遑」のところを覗くと「遑遑」という語がありました。これを漢和辞典で引くと「うろうろしている」の意味です。「南京基督幻遑遑」と芥川の短編
『南京の基督』の幻が見えることにしました。「南京基督」は「龍之介」「潤一郎」とともに解説を要します。「日本近代的小説家,芥川龍之介的短編小説南京的基督。從秦淮採用了題材」と註記します。この首聯の後に先の「曾游・・」を続ければ律詩の前半が完成します。頸聯は転換が必要です。歴史書は南京の戦禍をよく書くが、詩人は男女の万恨を描きたいとしましょう。『詩韻含英異同弁』で「長」の字を引くと「萬恨長」というのがあります。対聯に数字を使うときは双句の同位置にも数字が要ります。「史書傾描千禍重,騒人欲写萬恨長」とします。実は先の潤一郎の「一」もそうなのですが、これは個人名なので致し方ありません。固有名詞は括弧書きをしておきます。そして最後は眼前の風光に還り「扁舟幾艘泛淮水,士女不知酔臉章。」とします。起承転合です。

  橋畔妓楼隠緑楊, 橋畔の妓楼 緑楊に隠れ,
  南京基督幻遑遑。 南京の基督 幻や遑遑。
  曾游妖筆龍之介, 曾て游ぶ 妖筆 龍之介,
  又追文豪潤一郎。 又た追ふ 文豪 潤一郎。
  史書傾描千禍重, 史書は描かんと傾く 千禍の重きを,
  騒人欲写萬恨長。 騒人は写さんと欲す 萬恨の長きを。
  扁舟幾艘泛淮水, 扁舟 幾艘 淮水に泛び,
  士女不知酔臉章。 士女は知らず 酔臉の章。