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話題9 | ■擬古の詩と擬古主義者の詩 石倉鮟鱇 2007/1/14(日)05:57返事 / 削除

擬古の詩と擬古主義者の詩

 擬古をめぐって詩を考える場合に、擬古の詩と擬古主義者の詩を区別する必要があるように思えます。擬古の詩は、おおまかではありますが、次のように区別されるからです。

1.われわれ日本人が作詩を習う段階で、古人の詩をお手本として書く擬古の詩。この場合、古人の詩を手本にしているので、作者には当然に、擬古の詩を書いている意識があるでしょう。しかし、詩を学ぶ初期の段階で古人の詩やその手法に通暁するのもなかなかむずかしい。そこで、読者の目から見れば、擬古の詩に見えるが擬古としての完成度が低く、場合によっては、擬古の詩とはとても思えない内容のものとなる。あれこれ指正を受けることになる。
  しかし、その指正も、あくまでも作者の意思が擬古をめざしているということが前提である場合には有効であっても、そうでなければ滑稽なだけです。内容の良し悪しが問われるべきであるのに、作詩のうまい下手を問題にすることになるからです。

2.作詩において達者な方が余技で書く擬古の詩。作者のねらいは擬古にあり、手腕もあるから、詩に通じた読者には擬古であることがよくわかる。ただ、だからどうなのかといえば、詩についての專門的な知識のない一般の読者の心を動かすことはおそらくできないでしょう。
  擬古の詩の精華は、古人の詩をめぐる知識の集積を源泉とし、いかに巧妙にその財産を活用するかにあります。しかし、一般の読者にはそのような財産はないから、読んでもわからないところが多い。わからなければ、心は動かない。それを読者の無知の責任に帰することはできるでしょう。また、擬古の詩を解説して、少しはわかるようにすることもできるでしょう。しかし、たとえば東京を舞台にした詩を擬古で書いたとして、東京を長安と言い換えるのが擬古ですというたぐいの解説は、詩の専門知識なくしては容易には理解できません。なにを馬鹿な、東京なら東京でよいではないかというのが読者一般の健全な良識です。
  この良識がわかったうえで、それでもなお擬古の詩を書く詩人は、擬古を「余技」とします。詩には言葉の遊びの面もあります。東京を詩のなかでは長安と書くのは遊びです。遊びであるから、余技とするのは当然であり、この場合の擬古の詩のねらいは、専門家同士のなぐさみにあります。そして、遊びが悪いということもありません。それはそれ。これはこれ。という意味で。

3.そして、最後に、擬古主義者の擬古の詩。擬古主義者は、擬古こそ詩のあるべき姿と考え、擬古を余技の詩あるいは遊びとは考えない詩人です。書かれた作品を見る限りは、あるいは上記2の場合の擬古の詩と大差ないかも知れません。どこが違うのか。読者に対する作者の要求が違う。
  擬古主義の作者が読者に何を求めるかといえば、詩は擬古でなければ佳詩ではない、詩人は古人の作風に学ばなければ一流ではない、という価値観を共有すること求めます。しかし、そのような価値観が、わたしたち現代に生きる者の共有に堪えるわけがない。そこで何が起こるか。
  擬古主義者にとっては、一般の読者が、詩について專門的な知識を持たないことがまず嘆かわしく思えるでしょう。また、周囲の同類(つまり詩人)が擬古の詩を書かない、また、古人の詩を十二分に学ぼうとしないことを嘆かわしく思うことでしょう。さらには、古人の詩を十二分に学ぼうとし学んだんだ詩人を尊敬しないことが嘆かわしい。などなど。そのような次第で、擬古主義者は、さまざまな嘆かわしい場面に遭遇します。そして、どうするのか。
  「君の詩は李白の詩のようだ」というほめ言葉は、その評価の責任がどこにあるかが明確だから、李白はおそらく何もいわないでしょう。しかし、擬古主義者は、「君の詩は李白もほめるだろう」とほめます。このほめ方は、虎の皮ならぬ李白の仮面を被った狐に似ています。面の皮を剥ぎ取られた李白の怒る顔が眼に浮かびます。擬古主義者は、古人・先人の業績を遵奉してやまないから古人と自分を混同しがちになり「李白もほめる」といってしまうのですが、古人・先人の立場からみれば、くだらない議論で自分の詩や文がもてあそばれることを不快に思う、そういうことがあるのではないでしょうか。わざわざ先人・古人の言葉を引かなくても相手に伝えることができることは、自分の言葉と責任で言えるようにしたいものです。

  さて、きょうの午後わたしは、王力先生が著した「詩詞格律」を読んでいました。律詩・絶句の通韻について、わが国では、首句においてのみ隣韻を用いることが許されると説かれることが多いように思いますが、王先生の見解はこれと異なります。小生は眼からウロコで読みました。先生は、次のように書かれています。
 「以上、律詩で用いる韻の厳格性について述べたことは、ただ、古代の律詩を説明するためである。今日われわれがもし律詩を書くとしたら、必ず古人の詩韻に拘泥しなければならないというものではない。首句で隣韻を用いるだけでなく、その他の韻脚で隣韻を用いても、朗誦して諧和するのなら、すべてそれでよしである。(小生訳)」。
  先生は、この文の前で、首句での通韻は盛唐の詩(王維、李白、杜甫など)ではきわめて稀れであるが、晩唐以降は相当普遍的になっているとして、杜牧の「清明」や林逋の「山園小梅」を例示しています。つまり、杜牧や林逋の時代の詩人たちは、彼らにとっての古人・先人である盛唐の詩人の詩を絶対化する擬古主義者ではなかった、そこでわれわれも、通韻を首句にのみ限って許すという普遍化を実現した晩唐・宋の詩人の詩法を絶対的なものと考える必要はない、ということなのでしょうか。
  王先生の文の一節、學ぶべきは古人にのみあらずということで紹介します。

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投稿1 | ■三っのタイプ 中山逍雀 2007/1/14(日)06:00返事 / 削除

玉稿拝見しました。
 一見擬古と見受けられる作品でも、其れには二通り有るというお説、眞にその通りと思います。入門当初はテキストなどの関係から、古人の手法を参考にしなければならない現実があります。然し習作の期間を過ぎると、三通りに分かれます。
 其一はテキストの奥義を究めようと、更に古を求める、所謂「擬古主義者」なのでしょう。擬古主義者になる為に、巷間に出回っている漢詩の書籍の殆どは、古典解釈ですから、これらの論述を忠実に勉強すれば、何れは目的とする所に行き着きます。
 擬古主義者は、擬古は余技であると言う事を認識する事が肝要です。古典を読み漁り黙々と勉強するタイプに多い傾向です。
 其の二の現実路線に進む人は、習作の後半に成って、自分の作品に一寸と疑問を感じます。そして気が付いたその時から、自分で道を切り開かなければ成らないのです。何故なら平成15年に通用する漢詩詞の解説書は、殆ど巷間に出回って居ないのです。
 この道を進むには、日本に於いてテキストを捜す事は困難ですから、指導者を捜す方が近道です。今はインターネットが盛んですから、海外の詩壇と作品の遣り取りをしている事を第一条件に捜します。そこから、海外の詩論なども手に入れる道が開けます。そして、海外の人々の作品をよく読み、その傾向を掴む事です。
 其の三には二通り有ります。今の作品に満足して疑問を感じない人と、自分の作品に疑問を感じてはいるが、それから先へ道が切り開けない人達です。何れも中途半端な作品を作り続ける結果となります。
 簡単な例を挙げれば、所々に今風の言葉を入れて、平安歌人のような作風で短歌を作ったらどうなりますか?日本に一番多いタイプです。周りを見回しても殆どがこのタイプですから気が付かないのです。

http://www.741.jp/

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