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 彎曲し火傷し爆心地のマラソン       金子兜太

 金子兜太は「造形俳句」の開拓者である。造形芸術とは可視的な絵画や彫刻をいい、通常文芸には用いない。俳句を現代詩と見る活動は子規から始まったが、ついにここまで来た。五七五の定型に季語を入れればいいといった『ホトトギス』的解釈で複雑な現代的詩情を満足させるのは難しい。もともと歳時記自体が農業の歳時を編んだもので、農業と堅く結びついていた。農業人口の激減、季節感の喪失は季語の土台自体を怪しくしている。

 兜太は日銀就職後太平洋戦争に応召されトラック島で終戦を迎えた。帰国して再度日銀に勤務しつつ俳句の道を進んだ。最初師として仰いだのは草田男と楸邨だった。結局人間の本質に近づこうとする楸邨に共感して『寒雷』同人となる。

 兜太は日銀の初代労組委員長である。その後出世街道とは無縁の地方支店時代が始まる。冒頭句は長崎支店営業課長時代の作。安西篤の労著『金子兜太』によると、兜太が長崎駅頭に立った時、真っ先に九州俳壇の重鎮隈治人がカメラマンを伴って出迎えた。会話中に日銀行員がきて「こちらは当方の人間ですのでお引き渡し願います。金子君は日銀の仕事をしに来たので、俳句をつくりに長崎に来たんじゃない」と捜査中のホシでも引き取るように連れ去ったという。その間兜太は傍らでにやにや笑っていたらしい。

 冒頭句は爆心地を走るマラソンから、原爆投下時の幻想が燃え上ったのであろう。現代人の造形がそこにある。草田男は説明不足だと難癖をつけ、「爛れて撚れて爆心当てなきマラソン群」と改作してみせた。しかし誰もそれをいいとはいわなかった。結局原句が絶賛を博した。写生に留まらない幻想が作品に迫力を発揮させた。

 兜太の長崎赴任の直前、郭沫若が日本学術会議の招待を受け、中国科学院の随員十名を伴って日本を訪問し廣島の爆心地を訪問した。原爆記念館の記念帳に「為了人類的幸福、原子武器必須廃棄、原子能必須全面為和平建設服務」と揮毫している。しかし廣島で彼が詠んだ詩は、不死鳥の如く蘇った廣島を讃えたものであった。

廣島再訪 郭沫若
 一夢十年遊 一夢 十年遊び
 再生似鳳凰 再生 鳳凰に似たり
 海山長不老 海山は不老に長じ
 人世楽安康 人世は安康を楽しむ
 
 暖意孕冬風 暖意 冬風に孕み
 陽春已不遠 陽春は已に遠からず
 寒梅嶺上開 寒梅 嶺上開き
 含笑看人間 笑いを含み人間(じんかん)を看る

  詩は穏やかな中にも廣島の再生を鳳凰に喩えている。鳳凰は五百歳になると、香木を集めて自らを焼き、その灰の中から再生するという。詩人の心情が滲み出ている。

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  雨乞いの双幅とただ伝へらる              高野素十

 「雨乞い」という儀式はせっぱ詰まった神頼みで、真に頼りないものだが、この双幅が何故雨乞いのものなのか、本人も納得がいっていないのであろう。「ただ伝へらる」という表現にそれが見事に捉えている。客観を装った主観がそこにある。

 昭和初期『ホトトギス』の全盛期、四Sと呼ばれた新鋭作家がいた。四Sとは秋桜子・誓子・素十・青畝のことである。昭和五年頃、虚子は写生を先鋭化させ、短歌の斎藤茂吉の「主観写生」を否定し、俳句の写生は「客観写生」たるべしといい始めた。虚子は客観写生の優等生として高野素十を挙げ、秋桜子のロマンチシズムは敬遠された。秋桜子の主宰誌『馬酔木』の同人達は『ホトトギス』を離脱すべしと促す。この反『ホトトギス』の空気を察した虚子は、『ホトトギス』に『嫌な顔』という短編を掲載する。信長が越前の門徒一揆を鎮圧したとき捉えた一味の中に、元信長に仕えたことがある栗田左近がいた。当時左近は重だった将士のことについて信長に耳打ちしたことがあった。信長が聞き流すので、嫌な顔をしたというのである。いつの間にかいなくなったと思ったら、越前へ行って、あることないことを言いふらしていたという内容である。この短編が『馬酔木』一党のパロディーであることは明白だった。秋桜子はついに我慢がならず『馬酔木』誌上に『織田信長公へ』の一文を載せる。竹下しずの女が虚子に手紙を送って「あれは『馬酔木』についえ書いたのか」と訊く。すると老獪な虚子は「あれは秋桜子を書いたものに無之候」と返事している。こうして『ホトトギス』を追われた秋桜子が、後に編纂した『俳句歳時記』の中に、虚子のお気に入り優等生だった素十の冒頭句が載っているのは面白い。

 双幅には対聯が書かれる。小畑節朗氏の「対聯は詩詞の一種か?」の質問に対して、林岫女史は2004年研討会席上、「対聯は詩詞の対杖形式と見ることができる」と答えている。

 雨乞いは無論中国でも古代からある。蘇軾に「七月二十四日、久しく雨ふらざるを以て、?渓に祷る・・・」の律詩がある。

 龕燈明滅欲三更 龕燈 明滅して 三更ならんと欲す,
 欹枕無人夢自驚 枕を欹てれば人無く 夢自ら驚く。
 深谷留風終夜響 谷を深め風を留めて 終夜響き,
 乱山銜月半床明 山を乱し月を銜えて 半床明し。
 故人漸遠無消息 故人 漸く遠くして 消息も無く,
 古寺空来看姓名 古寺 空しく来りて 姓名を看る。
 欲向□渓問姜叟 □渓に向いて 姜叟を問わんと欲すれば,
 僕夫屡報斗標傾 僕夫 屡報ず 斗標傾けりと。
□=石+番

 蘇軾は嘉祐六年(1061年)二十六歳で鳳翔府(今の陝西省鳳翔県)の簽判(高級事務官)として赴任した。雨乞いも職務だったのだろう。?渓は周の文王時代、太公望が釣りをした処で、水神"姜叟"として祭られていたらしい。流石にここまで来ると古寺の芳名簿にも知人の名はない。夜半、北斗星の傾きの知らせで、祈祷に向かうのである。

 

 

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熟れ茱萸や馬台帳の捲れぐせ      高田廣稲子

 馬を育てて売る生計は曾つて東北に多かった。各馬の血統や成育の状況が「馬台帳」に書き込まれている。捲れぐせがつくほど、何度も何度も捲られてきたのである。それは各馬の記録であると同時に家の記録でもある。茱萸がたわわに熟れる秋になると、仲買人である博労が買い付けに来る。別れが近づく空気さえ伝わってくる様である。

 作者高田廣稲子さんは鶴岡在住の現存の俳人で『陸』誌同人である。馬の養育ないしは売買の経験があるのか尋ねてみたが、経験はないとのこと。意外なことに、この句は『奥の細道』で名高い山刀伐峠(なたぎりとうげ)の「封人の家」に対峙する「農事記念館」で馬台帳を見たとき出来たという答が返ってきた。この最上町は往年は馬産地で、昭和三十年頃まで畜産業が続いていた。今では記念館の展示物と化してしまった一冊の記録だが、詩人の鋭い目が注がれると、過去の情景が彷彿する一句が生まれたのである。

 茱萸の登場する詩といえば、人は『唐詩選』にもある王維の『九月九日憶山東諸兄弟』を思い起こすことだろう。十七歳の重陽に詠んだといわれる傑作である。

  九月九日憶山東諸兄弟      王維

 独在異郷爲異客, 独り異郷に在りて異客と爲り,
 毎逢佳節倍思親。 佳節に逢う毎に倍なす親を思う。
 遙知兄弟登高処, 遙かに知る兄弟 高処に登り,
 遍挿茱萸少一人。 遍えに茱萸を挿し 一人少きを。

 旧暦九月九日は重陽である。奇数の月は陽、偶数の月は陰、陽の月と陽の日が重なるのが重陽だから、一月一日、三月三日、五月五日、十一月十一日はいずれも重陽ということになるが、詩では「重陽」または「九日」といえば九月九日を指す。「重九」ともいう。唐代には重陽に茱萸を頭に挿して高いところに登り、菊酒を飲み遠い親族を思い、邪気を払う信仰があった。王維は十五歳から科挙の試験に備えて山東の田舎から都に上り、生まれ持った詩、画、音楽の才能を通して、十七歳頃はすでに長安の寵児だったという。

 周本淳の『唐詩絶句類選』では、この七絶を「純用白描,自然感人。」という。「素描を用いて、人を自然と感じさせる」といったところだろう。また「首句与末句"少一人"相応。」ともいっている。「自分独りが異郷に居る」という最初の句が、末句の「一人少ない」という相手の感情と相応じているというのである。真にその通りで、起句承句は長安側、転句合句は山東側という巧みな構成を用いた距離感が讀者を感動させ、現代でも口をついて反復させるのである。

 現代の留学生が味わう望郷の念もこれに近いものがあるであろう。現代中国に茱萸を挿す習慣があるかどうか、清代の『北京歳時記』(敦崇著)で調べてみたが無いようだ。にも拘わらずこの一首が、今日も人口に膾炙される所以は、詩の情と構造が優れている証拠であろう。
 冒頭の俳句も、すでに滅び去った育馬産業の遺物から当時携わった人々の生き様や情感を、沸々と描き出す。詩心とは時空を越えた感動を、讀者に提供する力かも知れない。

 

 

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  こほろぎが生きをるこゑをよびかはす          橋本多佳子

 大正十一年(1922年)三月、四十八歳の虚子は二週間の九州旅行に発った。前年軽い脳血栓を患ったが、漸く健康も回復したのでこの旅を思い立ったのである。京都や岡山の行く先々で門人の歓迎に会うが、この旅のクライマックスは何と言っても小倉の魯山荘に於ける句会であった。この魯山荘というのは、小倉出の素封家橋本豊次郎の別荘で、筑前との国境の境岬にあり、眼下右手に小倉を、正面に彦島、六連の諸島をガラス越しに見渡せる景勝の地にあった。

 虚子を迎えての句会の場所を探していた杉田久女が、橋本家かかりつけの小児科医の斡旋でここを紹介された。当時二十二歳の多佳子は眼の大きな美人であった。夫の豊次郎と同様俳句には無縁であったが、この日丁重に虚子の接待役を勤めた。多佳子は当夜の虚子の「落椿投げて暖炉の火の上に」に触発されて俳句の道に入る。そして極めて個性的な女流の世界を開拓し、昭和期を代表する俳人の一人となった。

 冒頭句もこほろぎを詠み、「生きているよと声を呼び交わす」という把握は、女性ならではの新鮮さを感じさせる。多佳子の句風は、山口誓子の透徹したリアリズムと相照らす所があったらしい。戦後は誓子の『天狼』に参加して佳句を多く残した。稲妻を詠んだ「いなびかり北よりすれば北を見る」は女性ならではの繊細な感覚の一句である。

 虫の声に詩情を感じるのは、日本や中国など東洋人の特性らしい。今日、欧米でHaiku が流行しているが、西洋人にとって虫の音は雑音にしか聞こえないという。だから Haikuには登場しない。日本人は虫の声に「ものの哀れ」を感じ、中国人も哀愁を感じるが、雑音にしか聞こえない者に、詩を感じろといってみても始まらない。その点日本人と中国人は、確かに非常に近い自然への感覚を持ち合わせているようである。

 こほろぎ(蟋蟀)を、唐詩で"促織"という。杜甫も"促織"を五律に詠んでいる。「促織甚微細,哀音何動人。草根吟不穏,牀下意相親。久客得無涙,故妻難及晨。悲糸与急管,感激異天真。」促織という名は、その声が寒さの近づくのを知らせ、機を織るのを促すからであろう。それを証拠立てる張喬の七絶がある。

     促織 晩唐 張喬
念爾無機自有情, 爾(なんじ)を念えど 機(はた)無く自ら情有り,
迎寒辛苦弄梭声。 寒を迎うる辛苦 梭声(させい)を弄ぶ。
椒房金屋何曾織, 椒房 金屋 何ぞ曾つて織りしに,
偏向貧家壁下鳴。 偏えに貧家に向かいて 壁下に鳴くや。

 寒さが迫るのに家族のために織る織機は無い。その貧家の壁下でこほろぎが頻りに鳴く。遠くからは梭声が聞こえてくる。梭声の「梭」は糸を走らす紡錘 spindle のことだ。豪華な椒房金屋では何を織って来たのか。なぜ貧家に向かって、そんなに鳴くのか?

 張喬は晩唐の詩人。黄巣の乱を逃れて九華山に隠居し、薛能の知るところとなったという。『全唐詩』詩編二巻に五絶四首、七絶三十首があるといい、また『唐詩紀事』の『唐才子傳』巻十に傳があるというが、いずれもまだ当たっていない。

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