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詩俳同牀 菟庵散人
13年5月連載開始
詩俳同牀  菟庵散人 平成13年5月連載開始

    『詩俳同牀』とは何か?

 俳句が文学として確立したのは元禄時代、つまり今から三百年余前のことです。日本の伝統的短詩文学は『万葉集』の昔から和歌でした。和歌の中でも短歌は「五・七・五・七・七」の十七字で詠まれ最も多く親まれて来ました。この形式は「五・七・五」の上句と「七・七」の下句に分けられます。江戸時代には「座の文学」といわれる数人で一本の詩を詠み合う連歌や連句が流行するようになりました。連句の例でいうと、最初の人が「五・七・五」を詠み、これに続いて次の人が「七・七」を詠み、さらに次が「五・七・五」を詠むという方式で続けられて行きます。この最初の句は立句(タテク)といい、また発句(ホック)ともいわれました。このホックが独立して俳句が生まれました。この俳句に高い芸術性を与えたのは松尾芭蕉(1644-1694)です。
 この「五・七・五」という詩形は、世界の詩の中でも、最も短い詩形といえるでしょう。非常に短い中に詩情を詠うにはどうすればいいか? 芭蕉は日夜それを考えていました。芭蕉が先人の残した文学を学ぶために、左右に置いた書籍の中には、日本の文学と共に多くの中国の詩文集がありました。それらの中から芭蕉がいかに多くを学んだかは、彼の畢生の傑作といわれている俳紀行文『おくの細道』を読むとよく解ります。「月日は百代の過客にして・・・」という冒頭の言葉からして、李白の『春夜宴従弟桃花園序』の「夫、天地者萬物之逆旅也。光陰者百代之過客也。」から採ったものです。
 明治時代になって正岡子規が俳句を近代文学として立て直しました。子規は六歳から漢詩を学び、松山中学時代は漢詩の同好会で同人雑誌を作っていました。東京へ出て大学に入ってから日本の伝統詩歌の短歌・俳句の近代化に乗り出したのです。このように俳句文学の基礎には中国の詩歌が教養として培われて来ました。
 文化大革命後、中国の詩壇は強く日本の短詩文学に接近し始めました。俳句はすでに欧米で現代生活にマッチした詩歌として親しまれるようになっていましたが、ほぼ同じ理由で中国でも注目されるようになったのです。一九八〇年、日本の俳句代表団が招かれて北京を訪れました。北海公園の歓迎会の席上、趙樸初老が「五、七、五」
の十七字で次のような詩を即興で詠みました。

 緑陰今雨来、 緑陰 今雨来たり、
 山花枝接海花開。 山花の枝 海花に接して開く。
 和風起漢俳。 和風 漢俳を起す。

 この詩の最後の「漢俳」hanpaiが、この後この形式の名称となりました。今では中国の現代詩を代表する詩形として定着するようになりました。

001


 

あるときは船より高き卯浪かな   鈴木真砂女

 卯浪とは旧暦四月の浪のことである。すなわち今日の初夏にあたる。初夏の海を鮮やかに詠んでいるが単なる写生句ではない。それは「あるときは」という上五でわかる。人生の一齣、それも挫折を味わったとき得た感慨を回想しているのである。挫折こそは文芸の元肥だ。啄木や牧水が今日なお若者の心を打つのは挫折が底辺にあるからである。

 皮肉にも経済大国が達成された今日、この元肥を探すのが難しい。挫折のない青春から文芸が立ち上がるとは思えない。一家四人が生活保護を受けると月二十万円貰えるような超平等社会では、プロレタリア文学さえ成立基盤を失ってしまった。挫折・・・すなわち成就しない願望を求めるとしたら「道ならぬ恋」しかテーマはないかも知れない。本来の文芸の範疇から逸脱した『失楽園』のような小説が共感を呼ぶ時代なのだ。

 真砂女は九十を越えてまだ銀座の酒亭の女将をやっている。瀬戸内寂聴はかつて丹羽文雄邸で紹介されて句集『卯浪』を貰い、

  同じ空の下に住む雪つもるかな
  すみれ野に罪あるごとく来て二人

  等の句を見てハッとする。当時寂聴自身が「道ならぬ恋」に陥っていたからだ。だが女性は強い。有島や太宰のように女を道連れにするようなことはしない。挫折を元肥に文芸を構築して行く。後に寂聴は真砂女をモデルとした新聞小説『いよよ華やぐ』を書く。

 「道ならぬ恋」は中国文芸でも人気がある。昨年九月、北京で開催された「迎接新世紀中日短詩交流会」の席上で、作家で詩人の袁鷹氏は『万葉集』の額田王の「君待つとわが恋をればわが宿のすだれ動かし秋の風吹く」と元の雑劇『西廂記』の中の

  待月西廂下  月を待つ西廂の下
  迎風戸半開   風を迎えて戸半ば開く
  隔墻花影動  墻を隔てて花影動けば
  疑是玉人来  是玉人来たるかと疑う

をあげ日本人と中国人の愛情詩の類似性を説いた。この『西廂記』は晩唐の詩人元積の作とされる『鶯鶯伝』が元になっている。主人公の張生は蒲州(現在の山西省永済県)に旅したとき、遠縁の叔母に当たる鄭夫人の一家に会う。鄭家は当地の名家であるが内乱で危険に曝されていた。張生は手を回してその危機を救う。この一家に当時十七歳の娘崔氏という美女がいた。張生はすっかりのぼせるが鄭氏のガードが堅い。

 崔氏の小間使い紅娘から「お嬢様は詩文に明るい」との情報を得て、春詩二首を持たせてやる。するとこの絶句が届けられるのである。その夜邸へ行ってみると果たせるかな西廂下の戸が開けられていて崔氏に会える。ここから鶯鶯伝が発展するのだが、このイントロは中国で人気が高い。

 


002

ひと籃の暑さ照りけり巴旦杏    芥川龍之介

 漢口の前書がある。現在の武漢(ウーハン)だが、此の地は中国の大陸的猛暑の中でも殊更暑い土地だ。猛暑の大陸の印象を見事に切り取って見せた秀句だ。「籃」は「かご」と読ませているが、大型の竹製の籠のことである。「籃輿」という言葉があり、これは江戸時代までわが国の主要乗物であった「駕籠」と同じだから「籃」は相当大型の籠のことだ。この一字で現場感が涌いてくる。巴旦杏はアーモンドのことで最近は季語にもなっているが、この句は「暑さ」で十分だ。

 芥川には『上海遊記』『江南遊記』など魅力的な中国旅行記がある。中でも美人描写の筆は実にビビッドである。余洵から中国女性のどこに最も美を感ずるかと尋ねられ、「そうですね。一番美しいのは耳かと思ひます。」(『上海遊記』)と答えるところがある。更に「日本人の耳は昔から、油を塗った鬢の後に、ずっと姿を隠して来た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて来た」とロマンティックな見解を述べている。そして『西廂記』の鶯鶯の耳もきっとこんな耳だといい「笠翁は昔詳細に、支那の女の美を説いたが(偶集巻之三・声容部)未だ嘗てこの耳は、一言も述べる所がなかった。この点は偉大な十数曲の作者も、まさに芥川龍之介に、発見の功を譲るべきであ
る」と面目躍如だ。

 芥川は一九一一年三月から七月にかけ中国を旅行した。上海、江南,廬山、武漢、北京、大同を訪ね、モチーフとエネルギーを得て帰った。かくして『杜子春』等の中国ものが生まれるが、俳句は全集収録七十四句のうち、中国を詠んだものはこの句と洛陽の前書のある「麦ほこりかかる童子の眠りかな」の二句しかない。芥川にとって俳句は大陸を描写するにはあまりに小さすぎると感じたのかも知れない。事実漢詩も試みた形跡があるのだが、こちらは作品の体を成していない。

 ただ『漢文漢詩の面白み』のなかで「漢詩漢文を読むと云ふ事は、過去の日本文学を鑑賞する上にも利益があるだろうし、現在の日本文学を創造する上にも利益があると思ふ」と述べ、晩唐の詩人韓?5053(人+屋)の

 両重門裏玉堂前,  両重門裏 玉堂の前
 寒食花枝月午天。  寒食の花は枝に 月は午天
 想得那人垂手立,  想い得たり那人ぞ 手を垂れて立ち
 嬌羞不肯上鞦韆。  嬌羞鞦韆に上るを肯んじざるを

をあげて「羞じてブランコに上る事を承知しなかった少女を想ふ所なぞは、殆ど生田春月の詩の中に出て来さうである。」といい、漢詩がリリカルな感情表現に向かないとする当時の風潮に反論している。

 


003

萬緑の中や吾子の歯生え初むる    中村草田男

 真夏の緑の中で吾子の真っ白の歯が生えてくる感動を歌ったもので、昭和十四年の作である。この年、『俳句研究』の山本健吉司会による座談会で、中村草田男、加藤楸邨、石田波郷がそれぞれ本人の俳句作家としての在り方を述べたのに対して、最後に楸邨が「結局我々に共通するものは人間を探求すると云えましょうか・・・」と語った。ここから草田男・楸邨・波郷の三人は「人間探求派」と呼ばれることとなる。

  草田男はこのとき三十九歳。この三年前に結婚していて、これは長女を授かった後の句。第二句集『火の島』に収録された。草田男は余ほどこの句が気に入ったのであろう。第三句集は『萬緑』と命名、さらに丁度この頃発刊された草田男主宰の俳句誌も『萬緑』と名付けられた。草田男の作品で人口に膾炙された句となると「降る雪や明治は遠くなりにけり」が上げられるが、文芸の立場からは「萬緑」を代表とせざるを得ないであろう。なぜなら萬緑という季語がここから生れたからである。

 水原秋桜子編集の俳句歳時記を見ると「萬緑は草田男の句から始まったものであるが、いかにも若々しい季語である。」とし、波郷の「万緑をかへりみるべし山毛欅」とともに双璧だと解説している。若々しい季語とは意味不明で、いかにも感覚でモノを書く秋桜子らしい。草田男の創語であると言いたかったのであろうか。しかしこの創作季語が一世を風靡したことも事実で、虚子までがこれを受け容れ自ら作品を作っている。

 山本健吉が「萬緑」は王安石の『石榴詩』の一節「萬緑叢中一点紅,動人春色不須多。」が出典と解説したため、多くの俳句歳時記はこれをを流用している(但し「紅一点」と誤っているものが多い)。この解説には疑問がある。諸橋轍次大漢和辞典は「この句は人口に膾炙してゐて、安石の作とされているが、実際は其の作者に就いては確説がない」とし、王直方詩話も「一部だけで全編を見られず不明」(余毎以不見全篇為恨。)と言っている。片句の伝承だけで『石榴詩』の存在すら不明なのだ。

 文献考証は兎も角として更に大きな疑問が残る。萬緑の語源がこの詩となると「人を動かす春色須からく多からず」だから浅春の景であり、萌え出る草の緑を指すことになる。韓愈に『早春』七絶がある。その起承句は「天街小雨潤如酥、草色遙看近却無。」町中ミルクのような小雨で、草の色がボーっと遠くから見えるが近くは却って見えないという、ため息が出そうに幻想的に美しい緑だ。「萬緑叢中」とはそういう感覚を詠んだのではないか。もしそうだとだとすると、それを夏の季語にしたのはとんでもない誤解だ。

 この疑問は一度中国の詩人学者に確かめてみたいと思ってまだ果たしていない。鄭民欽先生は労著『日本俳句史』の中に「万緑叢中,吾児乳牙生。」と訳して採り上げ、「草田男の使用により現代俳句では夏を示す季語となった。(由于草田男的使用,成為現代俳句中表示夏天的季語)」と波風を立てず冷静に記している。しかし仮に誤解だったとしても、日本の俳句歳時記は「萬緑」を今さら春の季語に修正はできないであろう。そのときは「萬緑」は日本の新語で、「萬緑叢中一点紅」の詩句とは関係はないとするしかあるまい。伝統詩の世界だけに、典故を踏まえているとすれば、いささか罪作りな創語だったと云うべきか。

 


004

行き行きて倒れ伏すとも萩の原     曾 良

 『おくの細道』の山中温泉の場は、この句の前に 「曾良は腹を病て、伊勢の長島と云所にゆかりあれば、先立て行に」とあり「行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、今日よりや書付消さん笠の露」(『おくの細道』)と続く。その後芭蕉は北陸路を経て大垣に達し、ここで出迎えた曾良と再会するが、すぐ又その年行われた伊勢の遷宮を拝もうと二見へ向かう。

  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ 芭 蕉

 この句も又ハマグリの蓋と身(二見にかける)に別れるつらさを歌う。これが『おくの細道』のフィナーレである。別れこそは『おくの細道』の重要テーマだった。

 曾良は信濃の生まれであるが墓はなんと壱岐の勝本にある。「宝永七庚刀夫 賢翁宗居士也五月二十二日江戸之住人岩波庄右衛門尉塔」と刻む。幕府の巡見使に雇われ対馬へ向かう途上、壱岐の宿にあてられた海産問屋中藤家で没した。享年六十二。『奥細道随行日記』が発見されたのは第二次大戦中であった。その忠実な視察記録能力のお陰で、『おくの細道』の日程が実際とは相当異なることが立証され、『おくの細道』のフィクション性が浮彫りになった。その視察記録能力が幕府に買われたのである。

  春にわれ乞食やめても筑紫かな 曾 良の一句がある。

 ところで『おくの細道』の「月日は百代の過客にして・・・」の書き出しが、李白の「夫天地者,万物之逆旅,光陰者,百代之過客」から採られていることはよく知られる。李白にとっても別れは生涯のテーマであった。杜甫と山東一帯を旅したのち魯郡の東、石門の泗水のほとりで別れを惜しんだ詩がある。泗水は孔子廟のある曲阜の近くを流れ大運河に注ぐ。時に天宝四年(西暦七四五年)、李白が四十五歳、杜甫が三十四歳であった。

魯郡東石門送杜二甫 李 白
  酔別復幾日,登臨偏池台。何言石門路,重有金樽開。
  秋波落泗水,海色明徂徠。飛蓬各自遠,且盡林中盃。

「それぞれ遠くへ飛ぶ蓬のようなもの」とする李白の別離の感慨は、その後戦乱に翻弄されて行く二人の前途を予言していたかのようである。

 


005

朝顔や重たしと露揺りこぼす  李 芒

 2000年10月、李芒先生が亡くなった。先生は日中の短詩文学交流に偉大な足跡を残された。1999年の正月、林岫女史を通じて「林林、李芒両先生が、生きている間にもう一度、97年の中山栄造新短詩研討会のような会をやりたいと云っている」と連絡があり準備に入ったが、その年には都合がつかず、2000年9月の「迎接新世紀中日短詩交流会」となってしまった。しかし残念ながらその間肺ガンを発病された李芒先生は出席されず、メッセージだけが会場に届けられた。そして翌月他界されたのである。

 1920年撫順生まれの李芒は、奉天鉄道学校を卒業して機関手をやっていたが、文学への衝動断ちがたく、やがて映画脚本作家、雑誌編集等翻訳の仕事に従事する。また日本古典文学の翻訳に無類の才能を発揮し、訳書として『万葉集選集』や『山頭花俳句集』等を世に出した。社会科学院の研究員として活動の傍ら、和歌俳句研究中心の会長として日本の短詩文学研究の第一人者であった。

  1980年、文化大革命後の中国から初の招きを受けて、日本の俳句代表団が大野林火を団長として中国を訪れた。この歓迎会の席上で趙朴初により始めて漢俳が詠まれ、その後中国の詩壇と日本の短詩形文学作家の蜜月時代が始まるのだが、その蔭には日本の古典にも現代語訳にも精通した李芒の存在が実に大きかった。現代俳句協会等の諸団体、諸結社の交流に際しても常に翻訳の労を惜しまなかった。

 冒頭の句はある日本の俳句結社が訪中し、俳句・漢俳の合同句集を編纂した折の李芒の作品だ。合同句集はいずれも対訳を載せる。日中両国人が相手国の詩形で短詩を詠む例は『迎接新世紀中日短詩集』まで無かった。李芒は殆ど唯一の例外で漢俳も俳句も自分で作っていた。冒頭の句に相当する漢俳は次の通りだが、どちらが先に作られたかは不明だ。

  牽牛帯露開,晶塋猶恐汚顔色,揺曳落塵埃。 李 芒

 朝顔は中国では牽牛花という。俳句は十七音だが、漢俳は十七(漢)字だから内容はずっと具体的になる。露の晶塋(たま)が顔色を汚すのを恐れて、揺り動かして塵埃を落としたとする漢俳は、具体的でわかりやすく且つロマンテイックだ。ちなみに開と埃は脚韻を踏んでいる。翻訳・編集を引き受けた李芒は校正も全て引き受けたらしい。漢俳と俳句を残しているが、これもどちらが先に作られたか分からない。完と残は脚韻を踏む。

  校様方看完,紙上塋塋飄白髪,春宵月已残。 李 芒

  読み終えてゲラに白髪や春の宵  李 芒

 


006

  頬杖に深き秋思の観世音     高橋淡路女

 「秋思」は中国詩の世界では古くから在る題である。劉禹錫にも「秋思」の七絶がある。

自古逢秋悲寂寥、我言秋日勝春朝。
晴空一鶴排雲上、便引詩情到碧霄。

 「春と秋はどっちがいいか」という議論は日本でも王朝時代文学の一つのテーマであった。『萬葉集』巻一にある額田王の「秋山われは」の歌も天智天皇の設題に応じたものだが、もとはと言えば中国から輸入された詩題の教養である。日本で最も人口に膾炙された「秋思」は菅原道真の「去年今夜待清涼、秋思詩篇独断腸。」であろう。俳句歳時記には「春愁」はあったが「秋思」は以前は載っていなかった。角川の『合本俳句歳時記』を見ると中村草田男以下六名の作を収録しているから草田男の新設季語かも知れない。それにしては草田男の句は、

  秋思うべなひ終るやバスに飛び乗れり 草田男

  という古語を弄んだような句だ。むしろ蛇笏の門下、『雲母』の同人、高橋淡路女の冒頭句の方が納得できる。ただしこの句から連想するのは中宮寺か広隆寺の半跏思惟像であるが、あれは観音ではなく弥勒菩薩である。この『歳時記』によると季語の出典は杜甫の次の一詩となっている。

  聞道花門破  聞くならく花門破れ、
  和親事却非  和親事却って非なりと。
  人憐漢公主  人は憐れむ漢の公主、
  生得渡河帰   生きて河を渡りて帰るを得たり。
  秋思抛雲鬢   秋思雲鬢を抛ち、
  腰支勝宝衣  腰支宝衣に勝えたり。
  群兇猶索戦  群兇猶戦いを索め、
  回首意多違   首を回らせば意違うこと多し。

 この詩には「乾元二年、回○郭子儀に従い相州に戦う。利あらず。奔りて西京に還る。四月回○死す。寧国公主葬に殉ずるを欲す。子無きに因り帰り得たり。」の前書がある。広徳元年長安の都は吐蕃族の席巻するところとなり、唐将郭子儀は回○に援軍を頼んでやっとこれを退けた。これが出典だとなると回○に嫁した公主が「死にたい」というほど思い詰めた秋思なのである。秋の思いなら何でもいいというものではあるまい。(○=糸+ 乞・コツ)

 今年九月山東省の省都済南へ行った。ここには「五三惨案碑」が随所にある。通訳に尋ねても返事をしない。帰国後調べてみた。昭和三年五月三日、関東軍による「山東出兵」の無差別砲撃で済南は潰滅に帰し数千の市民が巻き添えになった。日本人観光客には話さないという配慮があるらしいが心の痛む記念碑である。

  ガイド秋思す五三惨案碑を説かず   述

 


007

  愛蔵す東籬の詩あり菊枕       杉田久女

 東籬の詩とは言うまでもなく陶淵明の「采菊東籬下悠然見南山」を指す。菊の花を入れて枕を作ると「頭目を清め邪穢を去る」(澄懐録)と、久女は高浜虚子のために菊枕を作りわざわざ小倉から鎌倉まで届けに行った。このストーリーは松本清張が芥川賞を受賞した最初の作品『菊枕・ぬい女略歴』に描かれて、人口に膾炙されるところとなった。小説では俳壇の大御所が「栴堂」、主宰誌が「コスモス」、私淑する女弟子が「ぬい女」となっているが、モデルがそれぞれ「虚子」「ホトトギス」「久女」であることは誰の目にも明らかだ。

 小説では東京女高師(現お茶の水大)出身の才媛であったぬいが、美校出の画家の三岡圭助と結婚し夫の赴任地小倉に住むが、夫は一向に画壇にデビューせず、貧乏教師生活に甘んじる。ぬいは二児の母となったが、平凡な暮らしにあきたらず女流俳人を目指す。一旦は「コスモス」同人として天才女流俳人の名声をほしいままにするが、次第に栴堂に疎んじられて行く。

 そんなときに起きたのがこの菊枕事件であった。栴堂はますます不快感を持つようになる。新聞社の企画で栴堂は欧州一巡の旅に出発することになる。船は横浜を発ち門司港に寄港した。ぬいはたまりかねて花束を抱えて門司港へ栴堂を送りに行くが、「記者団と会談中だから花は届けておく」と体よく追い払われる。ぬいは花束を取り返し船の甲板にぶちまける。ぬいはこの後、栴堂によってコスモスから除名される。次第に精神分裂症が進行し、昭和二十一年他界する。

 松本清張はこの小説で何を語りたかったのだろうか。勿論文学好きの一女性の挫折に文学的モチーフを感じたに違いない。しかしその後の松本清張文学の傾向を見ると、その背後に聳える家元制度とも見まがう俳壇巨大結社の俗悪さに、一層大きな興味をそそられたのではないか。心ある弟子たちは作家としての良心を大切にして袂を分かつか、偽善的に結社を支えて行くかの二者択一を迫られて行く。この小説は昭和初期の俳壇社会をえぐったドキュメンタリーとして人気を呼んだと云えよう。

 ところでこの俳句はどういう意味なのだろうか。「愛蔵す」の目的語は何なのだろうか?東籬の詩なら「愛蔵の」となるはずだ。すると菊枕だろうか。久女にとっては虚子が菊枕を愛蔵してくれることが望みであったのだろう。虚子の冷たい仕打ちに彼女は精神を病んで行く。虚子への憎悪は、虚子が可愛がった長谷川かな女へも向けられて行く。ホトトギス除名後詠んだ「虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯」等の句は哀れを誘う。

 「菊枕」で最も知られる詩は陸游のものであろう。母との折り合いが悪く、若くして離婚せざるを得なかった愛妻へ、四十三年後なお詩人は追憶を詠うのである。

 采得黄花作枕嚢, 黄花を采り得て枕嚢を作り
 曲屏深幌鎖幽香。 曲屏 深幌 幽香を鎖す
 喚回四十三年夢, 喚び回す四十三年の夢
 燈暗無人説断腸。 灯暗くして断腸を説くべき人無し

 


008

  歳末の旅の夜明けの火の見の灯    田川飛旅子

 こういう俳句は中国人には理解しがたいのではなかろうか。これは果たして詩だろうかと頭を捻るかも知れない。何しろ十七音のうち接続詞のofが五音もある。灯の見の「の」は名詞の一部だが、もとはと言えば「火の見場所」の省略であろうからやはり「of」の意である。うっかりすると日本人でも、これは単に正確な場所を指定したクローズに過ぎないではないかと云うかも知れない。

 田川飛旅子は本名田川博。工学博士。長年古河系の会社に勤務し技術系役員まで勤めた。楸邨主宰の『寒雷』創刊号で巻頭。『陸』を主宰し、一九九八年には現代俳句大賞を受賞した。

 この句も工科系の律儀さがどこかに潜む。歳末という雑然たる社会の中で、筆者は何かの理由で旅にいる。夜明けに旅館の窓から見ると灯の見の灯が遠くに見える。丁度カメラの望遠レンズでフォーカシングしていくような効果がある。歳末や旅と云った人間社会の雑事から一瞬開放された視覚が物理的な一点に絞られて行く。それは開放感というよりは、客観的大勢に従わざるを得ない諦観に近いものかも知れない。俳句は極超短詩だからただ言い放って読者の想像に委ねるが、漢詩はキチンと親切に説明する。

 宋の大詩人蘇軾(蘇東坡)の『除夜常州城外に野宿す』の七律を見てみよう。

 行歌野哭両堪悲, 行歌 野哭 両つながら悲しむに堪えたり
 遠火低星漸向微。 遠火 低星 漸く微に向かう。
 病眼不眠非守歳, 病眼 眠らざるは 歳を守るに非らず、
 郷音無伴苦思帰。 郷音伴うなく 苦ろに帰らんことを思う。
 重衾脚冷知霜重, 衾を重ぬれど脚冷やかにして霜の重きを知り、
 新沐頭軽感髪稀。 新に沐せる頭は軽くして髪の稀なるを感ず
 多謝残灯不嫌客, 多く謝す 残灯の客を嫌わずして、
 孤舟一夜許相依。 孤舟の一夜 相依るを許すを。

 煕寧六年(1073)蘇軾三十七歳の作。当時宋は東北の遼、西北の西夏の外敵侵入に備え大軍の調達を要し、財政は逼迫し農民は飢えていた。「野哭」は死者を弔う泣き声である。楸邨が戦後期の句集名にこの語を選んだ。宋政府は食糧を放出して飢饉を救うため常州に蘇軾を派遣した。作者は舟の中に野宿してこの詩を詠んでいる。

 除夜に眠らないのは歳明けを待つためではない。故国の誼を伝えるものはなく、歳末帰心は押さえがたい。夜着を重ねても霜夜は寒く、洗った頭は殊更髪の薄さを感じる。そんな一夜、詩人は町の残灯が自分を嫌ってはいないことを感じているのである。

 勿論、詩人の置かれた環境は全く異なる。しかし除夜に慣れない地で灯火を見ている点では、時空を超えた詩人の共通の目を感じさせる。ただ残念なのは日本では明治期に新暦を採用した際、民間に定着した除夜や新年行事まで新暦正月に移動させたことだ。ために日本の俳句歳時記は四季を五季に改編せざるを得なかった。除夜は季節感としては立春前の筈だ。中国では民間行事を大切にし、未だに正月は二月の春節である。

 

平成13年中に寄稿された記事は此処までです。

 


平成14年

009

 去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子

 「貫く棒の如きもの」とは何であろうか? 清崎敏郎は著書『高浜虚子』の中で「不逞と見られるまでの絶対的な自信」に裏付けられた虚子の「生活態度といったもの」であり、それは「まさに読者の眼前につき出された、太い棒」で「その棒は不気味な現実感を帯びてくる」と述べている。年頭には一年を振り返って些かの反省などを考えるのが普通の人間であろう。たとえば元積の『歳日』はこう詠む。

 一日今年始,  一日 今年始まる、
 一年前事空。  一年 前事は空し。
 凄涼百年事,  凄涼たり百年の事、
 応与一年同。  応に一年と同じなるべし。

これに較べれば虚子の態度には正にホトトギス帝国に君臨した傲慢さが見えるのだが、魅力のある作品には違いない。山下一海によると「八十六歳の虚子が、最後の句会に出した句は、『春の山屍をうめて空しかり』だ。この句を見ると、花鳥諷詠や客観写生を、虚子自身、自己の標語としては、全く信じていなかったのではないかと思われてくる」と云う。確かに虚子の名作と云われる百句を並べてみても、客観写生などという句は見あたらない。

 『ホトトギス』は子規によって創業されたが、子規は経営に自信が無かった。虚子はこれを三百円で買い取り、漱石の『吾輩は猫である』を連載して大成功する。一時は『ホトトギス』編集を碧梧桐に譲り、自分も俳句を辞めて小説家を目指すが苦汁を飲む。再度『ホトトギス』経営に乗り出して会員を集めるが、それには大衆を糾合しなくてはならない。虚子が常々用いた「兎に角五七五を並べてごらんなさい」という勧誘には花鳥諷詠のモットーが都合がいい。

  こうして『ホトトギス』の組織化に成功すと、水原秋桜子や永田耕衣のような作家でも花鳥諷詠でないという理由で排斥した。しかし虚子本人は花鳥諷詠や客観写生を実行する意思はさらさら無かったのであろう。虚子は確信犯だった証拠に

 初空や大悪人虚子の頭上に 虚子

という句さえも作っている。また「一月七日悪の利く人利かぬ人などと杞陽の申し来たれるに」の前書を付してこんな句もある。

 悪なれば色悪よけれ老の春 虚子

 いずれも花鳥諷詠などというお題目からは誠に遠い主観俳句だ。杞陽とは京極杞陽のことであるが、虚子の欺瞞を承知でホトトギスに残留していたのは杞陽だけではない。草田男のような主観俳句の作家でも最後までホトトギス帝国に残留した。虚子が死んで四十年、今でも数から言えば「客観写生」や「花鳥諷詠」を信じている人は多い。


010

 梅二月光は風とともにあり         西島麦南

 新暦の二月は大寒が明けたばかりでまだ寒い。それでも梅が咲くとそこだけパッと明るくなり、春がすでに来たことを感じさせる。麦南は蛇笏の門下。岩波文庫に勤務した。

 梅は唐時代中国から日本に輸入され大いに愛された。「うめ」という音自体中国音の直輸入である。『猿蓑』等に「むめ」又は「んめ」と仮名書きされているのも、現代中国語のmeiに近い。もともと輸入樹だから和名はなく中国語で読んでいた。俳句の季語では「花」は桜であるが、平安初期の「花」は梅だった。紀貫之の「人はいざ心も知らずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける」の花は梅である。

 新生中国が国花を決めるとき梅と牡丹が最後まで競い合った。最終的に「梅」が選ばれたのは、厳しい冬を乗り越えて春一番に花をつける梅に新生国家建設の夢をかけたからであろう。たしかに漢民族の牡丹への傾倒は唐の昔から強いものがある。むしろ梅こそ唐詩にはあまり詠まれていない。『升庵詩話』に「唐詩梅花詩甚少。絶句尤少」(唐詩には梅花の詩は殆どない。ことに絶句はない)と書かれている。唐を代表する花樹である筈なのに一寸不思議だが、梅が詩人に愛されるようになったのは宋時代のことらしい。

その代表格は林逋の次の詩であろう。

  山園小梅 山園の小梅 林 逋
 衆芳揺落独嬋妍, 衆芳 揺り落して 独り嬋妍、
 占断風情向小園。? 風情を占断して小園に向う。
 疎影横斜水清浅, 疎影 横斜して 水は清浅、
 暗香浮動月黄昏。? 暗香 浮動して 月は黄昏。
 霜禽欲下先偸眼, 霜禽 下らんと欲して先ず眼を偸み、
 粉蝶如知合断魂。 粉蝶 如し知らば合に魂を断つべし。
 幸有微吟可相狎, 幸いに微吟の相い狎る可き有りて、
 不須檀板與金尊。 須いず 檀板と金尊とを。

 芳しく独り咲き誇る梅は、風情を一人占めして小園を仕立て、まばらな横枝が清流に影を落とし、月もおぼろな黄昏どきには香りが流れてくる。霜夜の鳥が降りようとしてまずそっと眼を向けるが、白蝶がこの花を知ったら魂を奪われるだろう。幸い私の微吟は狎れているから、いまさら歌舞音曲や宴会はいらないよという趣旨だ。

 林逋は一生仕官せず西湖の孤山という島に棲んでいた。梅を妻とし鶴を子としたとして「梅妻鶴子」と呼ばれた。梅と云えばこの詩が語られ、「疎影」「横斜」「暗香」などは、それだけで梅を表す『詩語』として記録された。詩が出来上がるとすぐ捨ててしまうので、人がそのワケを聞くと「この世に名を得る気がないのに、ましてや後の世に名を残すことはない」と答えたという。蕪村の「発句集はなくてもなんかし。世になだたる人の、其句集出て、日来の声誉を減ずるもの多し。況、汎々の輩をや」を思い起こす。それでも捨てた紙を拾って歩いた人がいて、三百ほどの詩が世に
伝わった。


011

  船頭の耳の遠さよ桃の花          支 考

 各務支考は蕉門十哲の一人。美濃の生まれで芭蕉の死後は平明な美濃派を開いた。この句も説明が必要ないほど平明である。今日のように忙しい世の中ではなかなか味わえない情景である。多分船客が船頭に「岸の桃の花が綺麗だな」と話しかけているのに反応がないのであろう。耳が遠いという身体上の欠陥で幻想を広げさせ、春ののどかさを一層助長している。棹の音、櫓の音、船底を打つ水の音が聞こえ、桃の花びらが流れてくることさえ想像される。

 ひょっとするとこの句は桃源郷を想定しているのかも知れない。桃源郷は陶淵明が編纂した『捜神後記』の中の『桃花源記』に描かれている。

 武陵の漁夫が川沿いの道を迷って桃林の奥に洞窟を見つけて入って行くと、そのむこうは平和な桃源郷である。漁夫は村人から歓待を受ける。どうしてこんなところがあるのか尋ねると、村人の祖先が秦の圧制を逃れてこの村に移り住み、その子孫だという。そしてこのことは秘密にしてくれと頼まれる。漁夫は無事帰ってくるが、約束を破ってことの次第を長官に話してしまう。長官はただちに漁夫を案内にたてて、部下を派遣するが、二度と発見できなかった。

 梅の花は中国の国花だが、なぜか唐詩にはあまり詠まれていない。それにくらべると始皇帝の圧制を逃れた桃源郷の民話は絶大な人気がある。多くの詩人がこの話を材料にしている。その一例として張旭の七絶を見る。

   桃花磯          張 旭

 隠隠飛橋隔野煙, 隠隠たる飛橋 野煙を隔て,
 石磯西畔問漁船。 石磯西畔 漁船に問う。
 桃花尽日随流水, 桃花尽日 流水に随い,
 洞在清渓何処辺。 洞は清渓の何処に辺にか在る。

 南京の詩人、周本淳の『唐人絶句類選』の解説によると、「首句の写景には恍惚として迷い離れる状態が有る。」次いで桃花を引くことで「美郷を懸想させる」と述べている。しかしこの絶句は、転句までは『桃花源記』との関係は必ずしもハッキリしない。結句の「洞は・・・」の一句で、「やはりそうか」と思わせる。結句が事実上転句の機能を果たしているようにも思えるのである。ところで支考の冒頭句には、洞さえも出てこない。だからこの句が『桃花源記』まで念頭に有ったかどうかは分からない。しかし元禄のころ、陶淵明の『捜神後記』が読まれたことは大いにありそうなことである。


012

  チチポポと鼓打たふよ花月夜       松本たかし

 松本たかしは本名孝。明治三十九年能楽者松本長の長男として生まれた。父祖は代々江戸幕府所属の宝生流座付能楽者という家柄で六歳の頃から家元宝生九郎の薫陶を受け、九歳で初舞台を踏んだ。十四歳で肺尖カタルを病み静岡の静浦へ療養に行き今度は神経衰弱になる。このとき父が持参した『ホトトギス』に興味を持ち、能楽者をあきらめ、俳句一途に打ち込むようになった。昭和四年『ホトトギス』で巻頭をとり弱冠二十三歳で同人。たかしならではの主観と個性を持ち、鷹羽狩行の表現を借りならば「該博な教養と、病身ゆえの鋭い感受性があいまって、花鳥諷詠という客観写生の彼岸へと飛翔した。」

花月夜に鼓をチチポポと打つという感覚から、いみじくも蘇軾の『春夜』の「歌管楼台声細々」が連想される。

    春 夜        蘇 軾

  春宵一刻直千金,  春宵一刻 直 千金、
  花有清香月有陰。 花に清香有り 月に陰有り。
  歌管楼台声細細, 歌管の楼台 声細細、
  鞦韆院落夜沈沈。 鞦韆 院落 夜沈沈。

 春の夜を詠んだ詩で、これほど人口に膾炙した詩もあるまい。詩を知らない人でも「春宵一刻直千金」は、口にする。筆者が曾つて日中合弁の小商社に勤務していたとき、事務所が麹町にあって、構成員は日中半々であったが、千鳥が淵の夜桜を見て祝杯を挙げたのを思い出す。そのとき中国側の職員が、盛んにこの起句を口にしたのを思い出す。しかしこの蘇軾の絶句は、宴のあとの歌や管弦が残って、細々と聞こえているような、どちらかというと、静かな印象を与える。松本たかしの冒頭句も鼓を打つ音が、かえって春夜の静けさを浮き彫りにするような感覚が
ある。

 ところで鞦韆というのはブランコのことで春の季語であるが、それは清明節の行事から来ている。清明節は中国の年中行事の中で、春節(中国正月)に次ぐ大事な行事である。先祖崇拝の強い漢民族は、この時期に祖先の墓に参る。日本の彼岸より十日ほど遅い。日本の彼岸は恐らくこの清明節の輸入であろう。最近ブランコは春より夏にした方がいいなどと言う暴説を吐く仁もいるが、個人的体験で変えられるものでもない。

 鞦韆については俳句歳時記も研究不足が目に付く。角川の合本『俳句歳時記』は「俳句では春のもの」と、まるで俳句だけの特権みたいないい加減な説明である。水原秋桜子編の『俳句歳時記』には、鞦韆は収録されていない。鷹羽狩行編の『新編俳句歳時記』には「寒食の日に宮殿で官女がブランコで遊んだという中国の古俗があり春の景物として詩にも詠われた」と、可成勉強したらしいが、清明節のことは触れていない。中国は隣の国だが、民衆の習慣については必ずしも認識が深いと言い難い。



013

  みほとけの千手犇く五月闇     能村登四郎

 五月闇は梅雨時の暗い世界を指す。今年は早々とそんな季節に入ってしまった。この句は『沖』同人会の大和吟行の時、唐招提寺で千手千眼観自在菩薩を詠んだものである。四十本の掌に眼があり、残る九百数十本の手は光背状に作られている。それだけの手と眼で人を救ってくれると古代人は考えた。現代人の眼から見ると、異様な気味悪さを覚え、それが五月闇の中で蠢いているように見える。

 能村登四郎は明治四十四年(一九一一年)生まれ。一昨年死去した。市川の高校の教師だった。葛飾吟社の中山栄造主宰が高校の時習ったという。水原秋桜子の『馬酔木』門下。戦後『沖』を創刊し主宰となる。風景に接して作句する姿勢は終生変わらなかった。しかし単なる写生に終わらず、この句のように読者をして古代人の感覚にまで想いを馳せさせるところは、流石に『馬酔木』門下である。

 古代の彫刻は自ら語らないが、それだけに現代人の想像をかき立てる。一九七四年古都西安の郊外で井戸を掘っていた農夫が異様なものを掘り当てた。その後の発掘でこれが秦の始皇帝の兵馬俑であることが判った。発掘は今なお続けられているが、何百と並ぶ兵馬俑群像は二千数百年の時空を越えて、まるで生きているようなレアルな表現で人に迫る。世界七不思議は八不思議となった。現代中国人はどう見ているのだろうか。

    浪淘沙・秦俑観感      陜西省 江偉華
   驪山北麓下,大地天然。始皇霊體曾何観?功過得失誰評判?秦俑証看。  浩気蕩天下,六國帰然。驚世兵俑雄志顕,感慨萬千!    
              (普通語新韻・寒韻)
 (訳)秦俑を観て感ず
   驪山 北麓下,大地 天然たり。始皇の霊體 曾て何ぞ観 たる?功過 得失 誰か評判したる?秦俑 証し看たり。
   浩気 天下を蕩にし、六國 帰然たり。世を驚かせて兵俑 の雄志顕われ、感慨 萬千!

 春秋戦国の天下を始めて統一した始皇帝の圧政に対して、その功罪が古くから論じられてきた。詩の世界では始皇帝暗殺を企てた荊軻が易水の畔で歌った別れの歌は有名だ。「風蕭蕭兮易水寒。壮士一去兮不復還。(風蕭蕭として易水寒し。壮士一たび去って復た還らず。)」焚書抗儒まで行った始皇帝ではあるが、同文同軌制定の功績は大きい。

 近年中国人は文化大革命により似た体験を持った。焚書抗儒は毛沢東と四人組によって再現された。曲阜にある孔子霊廟に北京大学生が押し掛け、春秋時代の彫刻までを破壊した。だが人民の立場で共和国を建設した毛沢東の功績は偉大だ。江偉華はこの詞『浪淘沙』で、その思いを重ねているのだろうか。正に「感慨萬千!」なのである。



014

  こひ死なば我塚でなけほと丶ぎす    遊女奥州

 『猿蓑集巻之二』にある遊女の句である。作者は『俳諧蘇我』によると島原の太夫といい、『逆志抄』によると「貞享の頃新吉原にて名だたるうかれ女」という。東西で出自を争うほどの名妓であったのだろうか。とにかく『猿蓑』にとりあげられたのだからたいしたものである。佳句として認められたのだろう。確かに遊女の思いがこもっていて哀れである。中村俊定氏は万葉集の「恋ひ死なば恋ひも死ねやと霍公鳥(ほととぎす)物思ふ時に来鳴き響(とよ)むる」が本歌かという。「こひ死なば」だけが同じでも、「自分の墓で鳴いてくれ」というのと「物を思っているときにうるさく鳴くんだから・・・」と云うのとでは、まるで違うように思えるのだが。

 曾つて芦屋の阿保親王塚にほど近いアパートの四階に住んでいたことがあった。時折杜鵑が飛来してけたたましく啼いた。その声は六甲全山にこだまして海に達するのではないかと思えるほどであった。あの大きな声は古代人の哀愁をそそらずにおかなかったであろう。杜鵑が古典の詩文に登場するのは日本も中国も同じである。

 唐の詩人韋応物はもと任侠であった。玄宗皇帝に仕えて社会を知り、一念発起して読書に励み文官となった。江州刺吏、改左司郎中、蘇州刺吏などを歴任するに到ったのだから凄い。そのたびに人は遺江州、遺左司、遺蘇州などと親しみを込めて呼んだ。民生の病や苦難に意を払い人気があったのである。自ら詩にこう詠んでいる。

身多疾病思田里, 身に疾病多くして田里を思い、
邑有流亡愧俸銭。? 邑に流亡有りて俸銭を愧ず。

 公金詐取しか念頭にない最近の官僚には見せたいような句である。彼はもともと任侠になったくらいだから多感であった。『子規啼』(ほととぎす啼く)という扇情的とも思える絶句を残している。

高林滴露夏夜清,  高林露を滴らせ夏夜清く、
南山子規啼一声。 南山の子規一声を啼く。
鄰家孀婦抱机泣, 鄰家の孀婦机を抱いて泣き、
我独展転何為情。 我独り展転す何すれぞ情を。

 「孀婦」は寡婦のことである。「展転す」は寝返りを打つことである。「机を抱いて泣き」だの「何すれぞ情を」などというのは如何にも俗っぽいのだが、あまり不快感が残らないのはやはりその人柄のせいなのだろう。今日このごろの日本だったら、詩など残さずに不倫に走るのだろうが、それを耐えるところに文芸が生まれるとも云える。唐・宋の詩人たちの詩は、無論詩が上手いから世に残ったのであるが、それぞれの生き様や人間像に、限りない魅力を感じさせる。



015

  瀧の上に水現れて落ちにけり       後藤夜半

 水が次々と現れるから瀧になるのであって、一見、当たり前じゃないかと云われそうな句である。しかしこういう句は自然を鋭く観察しないと出てこない。丁度スローモーション撮影でものを見るように、はじめて動きのプロセスが解ってくる。

 後藤夜半は明治二十八年生まれ、昭和五十一年没。大正末期『ホトトギス』に参加し、昭和初期蛇笏、たかし、茅舎、秋桜子、誓子ら実力伯仲の時代の同人。昭和二十三年から『諷詠』を創刊主宰した。

 子規が芭蕉を否定し蕪村の写生を慫慂したため『ホトトギス』はその後写生を一枚看板にして来た。しかし子規の独断はやがて多くの俳人に疑問を抱かせるようになる。写生に徹する傾向は次第に飽きられ、秋桜子のリリシズムや波郷・楸邨のような芭蕉に近い、もっと主観に根ざした人間くさい作品が求められるようになる。

  蕪村は写生主義だけかという疑問も投ぜられるようになる。しかしこの句が今日でも俳句歳時記の滝の部に例句として登場するのは、その正確な観察が現在なお新鮮に映るからであろう。見方によっては子規が唱えた写生主義がピークに達した時代の遺した句とも云える。少なくとも虚子の「神にませばまこと美はし那智の滝」などという句に比べると既成概念を排した魅力がある。 海外旅行での俳句に殆ど名作がないのは、俳句が季語に依存し過ぎ、海外ではその効果を活かせないためと思われる。汀女の海外作などは駄作ばかり。十回にも及ぶ海外旅行で、一句も詠まなかった誓子の見識も偲ばれる。

 明治初頭の成嶋柳北は日本人として欧米で漢詩を詠んだ草分けだ。柳北の滞欧米作は率直に嘱目の驚きを述べていて成功している。滝についてもナイアガラの作品が数首ある。

那耶哥羅観瀑詩      成嶋柳北

  客夢驚醒枕上雷,  客夢 驚き醒む 枕上の雷,
  起攀老樹陟崔嵬。 起きて老樹を攀じ崔嵬を陟る。
  夜深一望乾坤白, 夜深くして一望すれば乾坤白く,
  萬丈珠簾捲月来。 萬丈の珠簾 月を捲きて来る。

 これを見ても海外諷詠は季語にとらわれない漢詩の方が向いていると思う。「万丈の珠簾月を捲きて来る」など俳句には難しい表現。同じナイアガラを詠んだ中国人の漢俳がある。 

 尼亜加拉瀑布       陳 明仙

  奔雷震雙域,     奔雷 雙域を震わし,
  濺玉迸珠萬馬歓。 玉を濺ぎ珠を迸らす萬馬の歓。
  銀河驚倒懸。 銀河 驚くべし倒れ懸る。

 ナイアガラを那耶哥羅とも尼亜加拉とも書くのは表音文字が無いからで不便なことだ。ナイアガラの迫力は「滝」という季語に頼って写せるものではない。




016

蚊を焼くや褒似(ほうじ)が閨(ねや)の私語(ささめごと) 其 角

 褒似(ほうじ)とは古代周王朝(BC.256滅亡)の女である。(実は似の字に女扁がつく)。「蚊を焼くや」までは現実の描写であろう。それから先は典故が用いられ、現実とも空想ともとれる。如何にも其角らしい派手好みの一句である。

 宝井其角は蕉門十哲の中でも、第一の高弟と云われた。江戸では其角の人気は高く、多くの門人を抱えて江戸派を開いた。蕪村の師、巴人もまた当派の一人である。芭蕉は其角の才能を高く評価していたが、その派手好みの句風は、芭蕉が『猿蓑』で目指した「わび」や「さび」とは、やや異質なものであった。

 さて褒似とはどんな女だったのか。『東周列国史』によると、夏の帝室の庭に二頭の龍が現れて、「われ褒の二君なり」といい、占うと龍の精気を貰って収蔵すれば「吉」であると出たところから話は始まる。その経緯を詳しく追う余裕はないが、とにかく褒の国が周の幽王に絶世の美女褒似を献上する。幽王はこの褒似を溺愛し、皇后も皇太子も廃してしまう。褒似は美しいが決して笑わなかった。幽王の関心はいかにして褒似を笑わせるかの一点にかかり、政事は後回しになってしまう。

 あるとき誤って狼煙が上げられ、諸侯は兵を率いて伺候した。このとき褒似が始めて笑ったのである。幽王は非常に喜び、褒似を笑わせるために今度はわざと狼煙を上げさせた。廃立された皇后と皇太子が反乱を起こしたとき、幽王が狼煙を上げても、最早誰も本気にせず周は滅亡するのである。

 『詩経小雅』にもこの話を歌った部分がある。

心之憂矣  心の憂いなるか
如或結之 如(ゆ)きて或いは之を結ばん
今茲之正 今 茲のまつりごと
胡然△矣 胡んぞ然して△(はげ)む
燎之方揚 燎の方に揚がるは
寧或滅之 寧ろ或いは之を滅さん
赫赫宗周 赫々たる宗周
褒似滅之 褒似 之を滅す (△=厂+萬)

 『詩経』は最古の詩の古典で、読み方は難しく諸説があるようだが、「心の憂いならば、行ってこれを結ぶこともできよう。今ここの政は、何とこんなことに精励している。燎(狼煙)を揚げたならば、敵を滅ぼせるのに、赫々たる周王朝では、褒似がこれを滅ぼしてしまった」といった意味であろう。ちなみに「蚊を焼く」は蚊遣火のことではない。「蚊帳の中で蚊を焼く」の意味である。電気が発明される前は、明かりは燭によっていた。だから捕らえた蚊はそれで焼いた。蚊帳そのものが見られなくなってしまった今日、この句の成立を説明すること自体甚だ難しい。ましてやその情緒は想像するのに大いに限界があると云わざるを得ない。



017

  いつも追はれ今はたはたを野路に追ふ    福田蓼汀

 「いつも追はれ」というのは、一生仕事に追いまくられて来た人の感慨であろう。会社の仕事でも作家や校正でも、所詮時間との勝負になるからだ。定年退職して、やっと野原で「はたはた」(バッタ)を追っている。句には登場しないが、お孫さんと一緒かも知れない。余生の感慨がほのぼのと伝わってくる。

 淮陰の現代詩人周本淳(字は蹇斎)の五律『小園』にも似た感慨がある。こちらは野路ではない。典型的な中国都市住居はコの字型になっていて中庭がある。それが小園だ。

    小園  周本淳
  縦横難十歩, 縦横して十歩するに難く,
  四季趣無涯。 四季 趣きは涯無し。
  百本葱分翠, 百本の葱は翠を分ち,
  一株榴吐霞。 一株の榴は霞を吐く。
  随孫尋酢猛, 孫に随ひて酢猛を尋ね,
  助婦剥絲瓜。 婦を助けて絲瓜を剥く。
  挙首驚還喜, 首を挙げては驚き還た喜ぶ,
  琵琶已試花。 琵琶 已に花を試すを。

 酢猛はバッタである。周本淳は一九四一年浙江大学中文科に入学したが、在学中対日戦争に召集される。対日戦争に続く内戦。苦難の末に帰還して南京一中の教壇に立つ。しかし今度は文化大革命の嵐が吹き荒れる。知識階級として避けられなかった弾圧を詠んだ『自嘲』という詩もある。その最中三女小華を失う。引き続く下放。老境に到りやっと訪れた平和な生活をこの詩は歌っている。戦乱の中を放浪した杜甫が一時の平和を味わった成都時代を思わせる雰囲気があるのだ。周本淳は淮陰に職を得て漸く落ち着き、長男周先民、長女周先林が名古屋大学へ留学した。1995年には子供二人の招きで夫妻で来日し、名古屋大学、京都大学、葛飾吟社で講演を行った。長女先林は帰国して南京師範大学に奉職しているが、筆者が本年春南京を訪れたとき、ホテルへ来て呉れ、秦淮をと
もに歩きながら、本淳先生がお元気で執筆活動を続けていることを話して呉れた。

 一方の福田蓼汀は明治38年(2005 年) 生まれ。昭和15年『ホトトギス』同人。昭和23年『山花』を創刊主宰。山を深く愛し多くの山岳俳句を生み、主宰誌名も山に因んだ。

 ところが皮肉にもその山が蓼汀に不幸をもたらす。次男善明が岡部浩子とともに奥黒部で鉄砲水に流されて遭難死する。同僚三菱商事山岳部の必死の捜索にもかかわらず、遺体すら発見できなかった。昭和44年10月黒部東沢出会で行われた慰霊祭で、蓼汀は九十一句の慰霊句を詠んだ。こうでもする以外に為すすべが無かったのであろう。その冒頭句。

  秋雲一片遺されし父何を為さん



018

   名月や君かねてより寝ぬ病       炭 太祗

 「寝ぬ病」とは今日でいう不眠症であろう。「君」は友人か恋人か分からない。恋人とすると別なイメージが広がる。いずれにしても相手は眼前になく、月を見ながら別な場所にいる相手を想っているのであろう。

 炭太祗(たんたいぎ)は江戸中期の人。芭蕉の旅寝の人生に習って旅を続けた末に、京都の島原に居を定めた。蕪村とも交流の深かった人である。

  麦を打つほこりの先に聟舅
  春の夜や女を怖す作りごと
  煤払の日に髪ゆふて誹らるる
 なき妻の名にあふ下女や冬籠

 などの句をみると分かるが、太祗は人事の句が得意であった。人間探求の先達といえるかも知れない。蕪村の周辺にはこういう個性的な俳諧人が多かった。

 客観写生を唱えて「蕪村に帰れ」と主張したのは正岡子規であるが、そもそも蕪村を写生の人と規定したことには疑問がある。尾形仂先生は名著『蕪村の世界』の中で「どうも近代は、子規が蕪村を取り上げた時から、ボタンをかけ違えた気がする。」と述べ、蕪村をして「和漢の古典を胸中に収めた上での、奔放自在な連想のはたらきと洗練された言葉の魔術は、端倪すべからざるものがある」とも述べている。子規の「客観写生」は虚子の「花鳥諷詠」へと発展し、俳句とは風景画の短詩だとする概念が可成り広く行き届いた感がある。第二次大戦後流石に人間不在の風潮に飽き足らず、楸邨のように「人間探求」へと舵が切り替える俳人も増えた。それでも人事句は多いとはいえない。

 これに対して中国の詩の世界はつまるところ人間を謳うことが強いように感じられる。純然たる風景詩でも背後に人間を感じないと面白くないとされる。ことに冒頭句のように眼前にいない人を憶うケースは枚挙に暇ない。九月九日は高いところに登りグミの枝を胸に刺して遠い故人(知人の意。死んだ人ではない。)を憶う日とされている。王維の次の詩は余りにも有名だ。一人少ないといっているのは自分を指しているのである。

  九月九日憶山東兄弟(九月九日山東の兄弟を憶ふ) 王維

 独在異郷為異客   独り異郷に在りて異客となり、
 毎逢佳節倍思親   佳節に逢う毎に親を思うこと倍す。
 遙知兄弟登高處 遙かに知る兄弟高き処に登り、
 遍挿茱萸少一人 遍へに茱萸を挿す一人少きを。

 白楽天には『八月十五夜禁中に独り直し月に対して元九を憶ふ』の七律がある。冒頭の太祗の句は、これらの詩を胸中に持っていた時代の作である。



019

  除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり     森 澄雄

 森澄雄は本名澄夫、大正八年(一九一九年)生まれ。九大卒の現役俳人。加藤楸邨に師事して『寒雷』創刊に参加。のち自ら『杉』を創刊主宰。澄雄のひたむきな文芸への研鑽を愛するファンは多い。十月伊豆函南の畑毛温泉へ行ったら、旅館の壁に「この山の落葉音してしぐれけり澄雄」の色紙が懸かっていた。私の手帳には「秋の湯や澄雄の色紙壁に掛け」と書き込んであった。

 この白鳥の句は昭和二十八年の忘年句会で忽然と浮かんだという。三十歳代半ばの作品である。一年中夫と子供のために働いた妻が、除夜の最後の湯を使っている。それをかいま見て「お前は白鳥のようだ」と賛辞を贈った作である。白鳥はギリシャ神話のゼウスとダフネス以来、性にかかわる鳥であり、矢島渚男は「清潔な色気がある」と評している。冷やかされるのを観念したのか、以後白鳥亭と戯称していたという。尾形仂氏は「和歌の世界では恋が大きなテーマであるのに、なぜ俳句では殆ど詠まないのだろうか。芭蕉の俳句に恋の句がないのは、芭蕉は連句の世界を持っていたからです。・・・子規は連句を否定したが実は本人は秘かにやっていた。子規が客観写生を唱えて以降、近代の俳句が生臭いことに手を出さなくなったのは片手落ちである」という意味の発言(『游星』二七号)をしている。澄雄のこの句に多くの読者が新鮮を見る背景にも、そのことを感じている気がする。

 湯浴みといえば温泉や銭湯の公衆浴場における裸の付き合いが危殆に瀕しているようだ。最近の若年層では水着を着ないと公衆浴場には入れないらしい。もともと全裸で公衆浴場に入る習慣はわが国だけで、中国や朝鮮半島にもない。台湾には温泉街があるが、日本の領土だった当時日本人によって開発されたものらしい。この秋の葛飾吟社の松島旅行でも、松島を眼下にしたホテル・ニュー小松の大風呂に入ったのは日本人だけだったようだ。しかし日本以外に風習が無かったかというとそうではなく、裸体禁断は儒教、キリスト教、回教といった中世を支配した宗教の禁制の結果に他ならない。古代にはローマのカラカラ浴場やポンペイの遺跡に見られるように公衆浴場の風習はいくらでもあった。

 中国でも西安の東、楊貴妃で名高い華清池へ行くと、玄宗皇帝が楊貴妃に湯浴みを賜った浴槽や、高官達が入った大風呂が発掘されている。当時は酒を飲みながら大勢で入っていたらしい。白楽天の『長恨歌』の楊貴妃入浴の一節はこう歌う。

  春寒賜浴華清池
  温泉水滑洗凝脂
  待児扶起嬌無力
  始是新承恩沢時
  ・・・・・・・

白居易自身は、こういう入浴の経験を持っていたかどうかわからない。読者はこの情景の実感を単なる空想とみるだろうか。それとも経験から生まれたものととるだろうか。



020

 十匹の猫も座を占め大旦          佐藤和夫

 大旦(おおあした)は元旦のこと。佐藤和夫は早大名誉教授。俳句文学館の国際部長として長く俳句の国際化に貢献してきた。『俳句からHAIKUへ』『海を越えた俳句』などの名著がある。後者では「漢俳」のためにも一章を割いていて、視野の広さを窺わせる。無類の猫好きと見えて句集『猫もまた』がある。元旦に猫が十匹いるというのだから想像に余りある。猫という動物に対する感情は、人によって好きと嫌いに分かれるようだ。草田男の句に、

 金魚手向けん肉屋の鈎に彼奴を吊り 草田男

というのがある。どこにも猫とは書いてないが、恐らくは金魚を猫に捕られた憤懣を詠んだのだろう。そう解釈して草田男は猫に好意を抱いていなかったと思っている。一方楸邨は猫好きで、晩年『猫』なる小句集を作っている。
 宋の詩人梅尭臣も無類の猫好きであった。『祭猫』(猫を祭る)という詩では、忠実だった猫の死を切々と悼む。

祭猫 梅尭臣

 自有五白猫,鼠不侵我書。今朝五百死,祭与飯与魚。
 送之於中河,況爾非爾疎。昔爾囓一鼠,銜鳴遶庭除。
 欲使衆鼠驚,意将清我廬。一従登舟来,舟中同屋居。
 □糧雖甚薄,免食漏窃餘。此實爾有勤,有勤勝鶏猪。
 世人重駆駕,謂不如馬驢。已矣莫復論,為爾聊欷歔。
  (注)□=米+臭

「五百」という猫がいて、私の書物を鼠から守ってくれた。今朝五百が死んだので飯と魚を供えた。お前を河に送って経を上げるのは疎かにしないためだ。昔一匹の鼠を捕って庭中を鳴き廻り、他の鼠を脅かしてわが書斎を清めた。ある時舟に乗っても部屋にいるのと同じにしていた。食糧が不足しても鼠に囓られた残りを食べずに済む。これはお前の手柄による。それは鶏や豚に勝る。世人は車を曳く馬や驢馬に及ばないというが、決してそんな議論を繰り返してはならない。お前のために欷歔(すすり泣く)ばかりだ。いやはや大変な詩である。悼まれた猫はもって瞑すべしである。草田男の省略著しい俳句の手法と較べると、その丁寧さが滑稽にも見えて来て、単なる鎮魂だけでなく、聊かそういう俳味に近い効果も狙ったようにも思えるのだがどうだろうか。


平成十四年寄稿分は此まで


平成十五年

021

  窓の雪女体にて湯をあふれしむ    桂 信子

 「俳句を作るときは私は別な世界にはいってゆけるような気がする。そこは私にとって純粋な世界。そのような世界に浸る喜びがあることによって私は俳句を六十年もつづけてこれた」と作者はいっている。桂信子は一九一四年大阪生まれ。日野草城門下。現在『草苑』主宰。

 たしかに信子の句を見ていると、別な世界の扉を開くことによって、人生を別なアングルから見直しているように思えてくる。曾つて『女身』なる句集を上梓しており、この句もその中の一つである。女体が入ることにより惜しげもなくあふれる湯は温泉だからだろう。それもひとりか精々二人の浴槽でなければならない。立ちのぼる湯気の向こうに雪が窓まで積もっている。単純な構成ながら、そういう豊かな想像を引き出すなかなか艶めいた句である。

 この手の艶情の詩は晩唐の韓アク〔人偏に屋〕の香奩体に尽きる。『詠浴』という律詩がある。

  再整魚犀□翠簪, □=手偏に龍
  解衣先覚冷森森。
  教移蘭燭頻羞影,
  自試香湯更怕深。
  初似洗花難抑按,
  終憂沃雪不勝任。
  豈知侍女簾帷外,
  ◇取君主幾餅金。◇=騰-馬+貝

 魚犀(笄)を整え翠の簪を搦めて衣を解くと先ず冷えを森々と覚えるという起聯。陰翳を羞かしがって侍女に燭を移させ、もっと深いかと怕れつつやっと香湯に入るという頷聯。初めて花を洗って抑え難きに似て、終いには雪に沃いで勝えざるを憂うというという頸聯。いずれも動きを変え角度を変えて耽美の限りを尽くす。そして合聯は又アッといわせる展開である。何と簾の外では侍女が、君主からどっさりと金を握らされて覗きの導きをしているのである。「◇=騰-馬+貝」は余剰と同じだから、侍女はどっさりとガイド料を貰ったのである。しかしこの合聯は、それに価する美女を想像させる効果がある。

 韓アク〔人偏+屋〕の手法は、定めし嗜好を凝らした中華料理の味といえようか。これに較べ桂信子の俳句は、日本料理の味といえるかも知れない。味は好きずきである。日本人が漢字という記録手段を身につけたために、翻訳なしで中国の詩文を理解できるということは、中華料理を堪能できるのに似ているかも知れない。欧米諸国で米のメシを食いたいと思ったとき、中国人のレストランが随所にあることは本当に心強い。しかし年齢と共に、好みも日本食を選ぶことが多くなるのは如何ともし難い。願わくば青年諸君が、肉体的にチャレンジブルで、複雑な発音について行ける若いうちに、中国語と中国詩文に手を染めて欲しいと思う。


022

  少年や六十年後の春の如し        永田耕衣

 耕衣七十歳の作。永田耕衣は一九〇〇年生まれ、一九九七年他界した。ほぼ二十世紀を生き通したが、森羅万象を見据えたような作風は老いてなお盛んであった。「少年が生涯の春で老年が冬」といった世間の常識的概念を破り、七十歳が春であって、少年はそれに近いというのである。耕衣俳句の根源を見る思いがする。

 耕衣の神戸市舞子の住居は一九九六年一月の阪神大震災で大破したが、耕衣は朝厠に入っていて九死に一生を得た。特別養護老人ホームに収容された耕衣の生活が新聞で報道され注目を浴びる。一時は再起不能と思
われていたがやがて

  枯草や住居無くんば命熱し

等の作品で復活する。その生涯に感動した城山三郎が『部長の大晩年』という小説に描いた。耕衣は若い頃加古川に勤務していて、『ホトトギス』地元句会に参加するが、花鳥諷詠でないとして参加を拒まれる。その陰湿さに呆れて新興俳句運動に参加し、今度は危うく検挙されそうになる。西東三鬼、石田波郷と出会い現代俳句の中核として勝れた作品を残した。

 七十という歳は古希と呼ばれる。日本人は古希だけでなく、還暦、喜寿、米寿、白寿、傘寿等々屁理屈を並べてお祝いをするが、中国では古希意外はない。何故古希があるかというと、それは詩聖杜甫が「人生七十古来希なり」と詠んだからである。だが今日では七十で学士入学する人さえある。耕衣の生き方に共感を持つ人も増えるであろう。 陸游に『書適』という七十を自嘲した五律がある。

  老翁垂七十, 老翁七十に垂んとするも
  其実似童児。 其の実 童児に似たり。
  山果啼呼覓, 山果は啼き呼んで覓め、
  郷儺喜笑随。 郷儺には喜び笑いて随う。
  群嬉累瓦塔, 群れ嬉れて瓦塔を累ね、
  独立照盆池。 独り立って盆池に照らす。
  更挟残書読、 更に残書を挟んで読めば、
  渾如上學時。 渾て上學の時の如し。

 この老人(自分のこと)は七十というのに、まるで児童と同じだ。山果(木の実)を欲しがって泣き叫び、鬼やらいの列について行く。少年といっしょに瓦を積んで塔を作って喜んでいる。本にしおりを挟んで読むが、すべては子供が学校へ上がった時と同じだという。他民族の侵入でズタズタにされて行く母国に悲憤を重ねて来た陸游も、晩年は童子の世界に戻った感がある。読者はその前歴を知るだけに一層胸を打たれるのである。



023

  湖畔に泊(は)す春夢に西施現(あ)れよとて  宇咲冬男

 湖は云うまでもなく西湖である。「ここに泊まる以上夢に西施が出て来てほしい」と云うのだろう。李芒の中訳は人説(人はいう)となっている。

  客宿湖濱春靄靄、
  人説西施入夢来。(李芒訳)

 西施は中国の歴史上の四大美女の一人だ。四大美女のうち貂蝉は詩文にあまり登場しないが、西施、王昭君、楊貴妃は好んで詠まれる。最も詠まれるのは何といっても西施であろう。西施が越王から敵国呉王に送られたのは、今から二千五百年も前のことであり、四人のうちで最も古い。李白・杜甫・楊貴妃の盛唐時代と云えどもこの呉越と現在のほぼ中間当たる。呉王は西施の色香に溺れて越の復讐に会うが、その古さとロマンが詩人の心を捕らえて放さない。芭蕉もその一人であった。芭蕉が『おくの細道』の象潟の下りで西施の一句を登場させたことにより、西施は俳人にとって特別の存在となった。
 
  象潟や雨に西施がねぶの花 芭 蕉

 芭蕉がこの雨に濡れた合歓の花を西施に結びつけた連想の裏には、恐らく蘇東坡の絶句があったと見ていいであろう。すなわち『飲湖上初晴後雨二首』(湖上に飲せしが初めは晴れ後は雨ふれり二首)の二首目である。

  水光瀲□晴方好,山色空濛雨亦奇。 □=さんずい+艶
欲把西湖比西子,淡粧濃抹総相宜。(蘇東坡)

 『おくの細道』はすでに松島の風光を紹介して「洞庭西湖に恥ぢず」と記している。西湖は憧れの景勝の地であったが、その雨の風光を蘇軾は「雨も亦奇なり」と詠ったのである。この絶句の西湖を西施に比べるという新鮮な手法に、芭蕉が魅せられていたことは十分想像される。そこへ合歓の花を重ねた芭蕉の手法もまた非凡というほかはない。

 宇咲冬男は昭和六年生まれ。記者生活十年の後文筆生活に入った。俳句雑誌『あした』を主宰。現代俳句協会理事。先般の林岫女史講演会にも参加され、第二部の質疑に立たれた。『迎接新世紀中日短詩集』にも作品を寄せている。そのうちの一句。

  花仰ぐ詩とはたしかに志 冬男

看花時、更加確信、詩言志。(鄭民欽訳)

 


024

  鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし      杉田鷹女

 鞦韆はブランコと同義語で春の季語である。ブランコを高く漕ぐことで、縺れる恋をわがものにしようとする女性の決意が述べられている。新古典派といった風情。しかし『俳句歳時記』が乱立している昨今、季語の解説も杜撰なものが多い。例えば角川書店編の『合本俳句歳時記』は「鞦韆」をこう解説する。

 “古く中国から渡来した遊戯の具であった。現在ぶらんこは校庭や公園などに設けてあるのをみる。「ゆさはり」「ゆさぶり」「ふらここ」「ぶらんこ」と時代と共に名称がか わって来ている。俳句では春のもの。”

 こんな適当な説明で現代人は納得するのだろうか。鞦韆が春のものであるのは俳句だけではない。鞦韆は清明節に際し宮廷で宮女が鞦韆で遊ぶ唐代の習慣に由来する。俳句はその語を輸入しただけである。「俳句では春のもの。」という表現に俳句歳時記編集者の思い上がりを見る。だが鞦韆で最も人口に膾炙しているのは蘇軾の七絶『春夜』であろう。

春宵一刻直千金,花有清香月有陰。
歌管楼台声細細,鞦韆院落夜沈沈。(蘇軾)

 春夜は正に一刻千金だが、ここには清明節の昼間の華やぎが残して行った庭のブランコがある。定着農業の漢民族が太陽の運行に基づいて一年を二十四節季七十二候の暦に仕立てたのは極めて古い。そして六世紀には『?楚歳時記』という農業暦が残されている。俳句歳時記は、江戸時代の俳人がこれを応用したものである。

 中国人の一年で最も大きなイベントは春節(旧正月)で、これに次ぐ清明節は現代暦では四月の始め頃である。このとき祖先の墓参りを行いピクニックを行う。これが「踏青」であり日本の彼岸の原形であろう。清明の前日は「寒食」で食事にも一切火を用いない。そして清明節には束縛からの開放感をよろこぶ。「踏青」も「寒食」も季語だが、最近の俳句歳時記ではこれらを削除したものもある。「鞦韆」はその際のイベントなのである。それがどれほど心ときめくものか、嵯峨天皇御製の 『鞦韆篇』を見てみよう。その後半は何とロマンチックなことだろうか。今日の中国詩人が嵯峨帝を高く評価するのが解る。

  幽閉人、粧梳早、正是寒食節,共憐鞦韆好、長縄高懸芳枝。窈窕翻翻仙客姿。玉手争来互相推。繊腰結束如鳥飛。初疑巫嶺行雲度、漸似洛川廻雪帰。
  春風吹休体自軽。飄飄空裡無厭情。佳麗以鞦韆為造作、古来唯惜春光過清明。
  踏雲双履透樹差、曳地長裾掃花却。数挙不知香気尽、頻低寧顧金釵落。嬋妍嬌態今欲休。攀縄未下好風流。数人把著忽飛去、空使伴儔暫淹留。
  西日斜,未還家。此節猶伝禁火,遂無灯月為灯。鞦韆樹下心難歇、欲去踟躇竟不能。
  (嵯峨天皇御製)



025

さくら実にもう誰のでもない羽毛    和地喜八

 和地喜八は二十代から『馬酔木』に投句し、昭和15年加藤楸邨が『寒雷』を創刊するやこれに参加した。昭和23年同人。同33年『響焔』を創刊主宰した。

 花の季節は去って、さくらは実になった。鳥も巣立って羽毛がふわふわと飛んでいる。作者はこの年、永年勤務した鉄鋼会社を退職した。「もう誰のでもない」というのは、もう誰にも使われない、頚木を解かれた作者の心境そのものなのである。頚木を解かれたサラリーマンが余生をいかに過ごすかは、その個人にとって重大な課題である。それが詩人であれば、自由になって、いよいよ創作に身を入れることができる。中国ではそれを「閑適」といってきた。「閑静安適」の略である。古くは陶淵明から多くの詩人がその喜びを詠ってきた。その中から清の袁枚の七絶を見よう。

   閑適 袁 枚
 不着衣冠近半年,  衣冠を着けざること半年に近く,
 水雲深處抱花眠。 水雲深き處 花を抱きて眠る。
 平生自想無冠樂, 平生 自ら想う 無冠の樂み,
 第一驕人六月天。 第一 人に驕る 六月の天。

 袁枚は清の全盛期乾隆帝の時代、23歳で進士に合格した秀才である。各地の知事を歴任し、40歳の若さでさっさと引退し、南京の小倉山に「随園」と称する山荘を築いて悠々自適の生活に入った。承句の「水雲深處抱花眠」というのは意味深長だ。40歳の若さなら、好きな女を十二分に楽しめただろう。最近のアメリカのニュー・リッチは、30代までに兆単位を儲けて蓄財し、やはり40歳で引退するという。

 乾隆帝の清は世界でも政治的に最も強大、経済的に最も潤沢な国であった。袁枚隠棲のこの年(1779)、奇しくも乾隆帝自身が退位後のために寧寿宮を完工している。君臣ともに閑適を楽しもうとしていたのである。当時世界最大の図書館だった『四庫全書』は存目6,788種、93,605巻を集めて、北京故宮内(文淵閣)、北京円明園(文源閣)、熱河避暑山荘(文津閣)、瀋陽宮内(文遡閣)の四カ所にすでに完成していた。

 このような清の全盛期は十九世紀に入り急速に衰える。栄華は永遠と信じ海外へ目を向けようとしなかったのである。やがて阿片戦争が始まり西欧列強の侵略を受けた清は、アロー号事件を機に1860年英仏軍の北京乱入を許すに到る。このとき円明園は破壊され美術品は略奪され文源閣は炎上消失した。政治の健全が文化を充実させ、沈滞が文化を潰滅させることを歴史は雄弁に物語っている。

 第二次大戦で日本は敗戦国となったが、その後の半世紀で奇跡の経済復興を演じ、人々はささやかな閑適を手に入れた。しかし「失われた10年」の失政の結果、年金制度の将来に暗雲が起ち始めている。一方の中国は戦勝国となったが、その後の内戦や文革で復興は半世紀遅れた。こちらはここ数年で目を見張らせる経済成長を遂げつつある。詩人が閑適を得るためには、まず政治・経済の安定が不可欠である。


026

  夾竹桃河は疲れを溜めて流れ          有働 亨

 春に較べると夏は花が少ない。万物暑さに疲れ、河さえも疲れを溜めて流れている。しかし印度原産の常緑灌木である夾竹桃は、河の両岸を埋め尽くして真っ赤に咲き続ける。河の疲れというのは無論作者の主観だが、夾竹桃の旺盛さを際だたせる効果を生んでいる。俳句はいうまでもなく五・七・五を定型とするが、この句は六・七・六と詩形を崩していて、それが暑さに疲れた気分をうまく伝えている。

 有働亨は大正九年(1920)熊本生まれ。京大馬酔木会で水内鬼灯に学び、のち水原秋桜子に師事し、『馬酔木』同人となる。昭和46年(1971)から十年間俳人協会理事を勤めた。

 夾竹桃は中国にも多く蘇州など江南の運河にも咲き誇る。むしろわが国に渡ってきたのは、中国江南地方を経たものであろう。女流漢俳作家として実力ある呉瑞鈞が蘇州の『古運河』を詠んだ作品を見てみよう。

  古運河      古き運河 呉瑞鈞

姑蘇古運河,  姑蘇の古き運河,
□竿劃破石橋波,  竿をとりて劃(さ)き破る石橋の波,
両岸竹桃多。  両岸 竹桃多し。
    □=手偏に堂−土+牙

この漢俳は、有働の俳句に較べると元気があり疲れは見せていない。「姑蘇古運河」の上五がすでに歴史風致を述べ、中七でそれを裂き破る竿の動きを捉えている。ただ夾竹桃が点景として効果をあげているところは、共通の詩眼が窺われる。

 東洋のヴェニスと謳われる蘇州だが、人と車と都市化の波で往年の面影は無くなったという人もいる。だが上海と蘇州の間にある周荘へ行くと、四百年前の水郷の街がそっくり残されていて、往年の蘇州を彷彿とさせる。縦横に走る運河の両岸は石橋で結ばれていて、絣の女が竿を操って観光客を運んでいる。 車やモーターの騒音が全く無い世界で、まさに「□竿劃破石橋波」の一句がピタリだ。

   重游沖縄       重ねて沖縄に游ぶ    呉瑞鈞

白鴎舞海波, 白鴎 海波に舞い、
木綿花開似火紅。 木綿(パンヤ)の花は火の紅に似て開く。
相識欲相摩。 相い識りて相い摩さんと欲っす。

 これは同じ作者の沖縄での作品である。ここではパンヤの真っ赤な花と、鴎の真っ白の光を対比させている。「相識欲相摩」の句が効果的だ。「白鴎はパンヤの紅と摩さんとす」にしても俳句として成立しそうだ。

 漢俳は俳句ではない。だが一瞬の情感を切り取って示す手法は俳句の影響が著しく、それ以前の漢詩には無かったものである。俳句のもう一つの大きな特色は、字面に描かない部分を読者に想像させる手法だ。漢俳はその手法にどこまで近づく積もりだろうか。

 


027

芋の露連山影を正しうす  飯田蛇笏

 飯田蛇笏は明治三十七年早稲田大学に入学し、虚子とも知合うが、四十二年一切の学術を捨てて、家郷甲州に帰り生涯田園生活を貫き通した。今日の山梨と違い鉄道も行かぬ山国だ。それはあたかも千六百年前、政争を離れて田園に帰った陶淵明の姿を追う風情がある。淵明の詩『飲酒其五』は、『帰去来辞』とともに、あまりにも有名である。

飲酒 其五 陶淵明
結廬在人境、而無車馬喧。
問君何能爾、心遠地自偏。
採菊東籬下、悠然見南山。
・・・・・ ・・・・・

廬を結ぶは人境に在るに、而も車馬の喧しさなし。
君に問う何ゆえに能く爾るや、心のどかなれば地自ら偏す。
菊を採る東籬の下、悠然として南山見ゆ。

 蛇笏の冒頭句は、何と淵明の心境と似通っていることか。「連山影を正しうす」とは決して客観写生ではない。影を正しうしているのは、連山に対決する作者自身の心に他ならない。それを対象に投影する手法は俳句独特のもの。それは「菊を採る東籬の下、悠然として南山見ゆ。」の心境と変わらない。なお淵明の「悠然」は南山にかかると蘇東坡はいう。

 終生『ホトトギス』にも在籍したが、その作風は「花鳥諷詠」とはほど遠く主観的であり、自ら『雲母』を主宰し多くの門人を生んだ。その作句姿勢について蛇笏自身『回想』の中でこう述べている。「季題に立脚し十七文字型に拠りつつ内在的に主観を強調しようとする傾向は、筆者としても最も多く毀誉褒貶を浴びたことは浴びたものであるが、その実、水巴、普羅、零余子、月舟の諸氏のごときもそれぞれ相当な濃厚さを示したに相違なく、石鼎、鬼城にしたところで、

我庵に火かけて見むや秋の風(原石鼎)、
綿入や妬心もなくて妻あはれ(村上鬼城)

 などとおさおさ怠りないところの主観的作品をつき出していたことであった。全ホトトギス陣営の状、推測するに余りある・・」

 山本健吉は、蛇笏を「まれに見る、雄頸かつ浪漫的な句風を高く評価されてきた大家」と紹介する。そしてこの句については「ほとんど倫理的なまでに格調の高さ、正しさを具えている句」とし、また「近代俳人の中で、堂々たる立句を作り得る作家を挙げれば、氏を随一とする。立句とは、連句の場で、既成の句を借りて来て発句として立てることで、格調の高い古今の名句が選ばれる。『連山影を正しうす』とは、彼の心の姿であり、それはおそらく、彼が苗字帯刀・石門白壁の旧家に生まれたことの意識に由来するものであろう。」ともいう。

 蛇笏は昭和後期俳壇の主流となった草田男・波郷・楸邨ら人間探求派の俳人たちからも尊敬を集めた。今日「蛇笏賞」が俳句界最高の賞と解されている所以である。

 


  028      

  海に出て木枯帰るところなし      山口誓子

 八月十五日、五十八回目の終戦記念日を迎えた。あの年の八月、廣島・長崎に原子爆弾が投下され、ソ連軍はソ満国境から攻め込み、我が国にはポツダム宣言を受諾する道しか残されていなかった。前年の十月以来、神風特攻隊は無益の体当たり攻撃を行っていた。誓子が特攻隊を知ってこの句を句帖に書き付けたのは十一月十九日のことである。

 往路の燃料だけを積み出撃する特攻隊は「帰るところ」のない木枯に見えた。鹿児島県の知覧町へ行くと特攻隊員が旧基地に残した手記や写真が陳列されていて参観者の胸を打つ。

 山口誓子は1901年生まれ1994年没した。少年時代に父を失い、樺太日日新聞社長であった祖父に引き取られて樺太の豊原で育つ。小学校を出ると豊原の家族を離れ、大泊中学寄宿舎で暮らす。その後祖父は健康を損ね新聞社をやめて京都へ帰り、誓子も京都府立一中に転校、三高を経て東大法学部へ進む。黒ずんだ樺太北海の印象は、いつも誓子の心を離れず、それを啄木流の短歌の調べにしたいと思っていた。だが当時京大三高の学生の間では俳句熱が盛んで、大正九年には京大三高俳句会が発足する。相前後して鈴鹿野風呂が「京鹿子」を創刊する。

 このような環境が誓子をして俳句の道を歩ませることとなる。三高の学生時代、虚子は初対面でこの青年の才能に感嘆した。誓子は大学卒業後関西の財界に身をおきつつ俳界に重きを成して行く。秋桜子、青畝、素十とともに、「ホトトギス」の将来を担う「4S」と称された。しかし誓子が新興俳句に接近することを虚子は喜ばない。

 昭和十年誓子は句集『黄旗』の序で新興俳句を守ると断言し、ついに「ホトトギス」離脱を決意する。すでに「ホトトギス」を離脱していた秋桜子の「馬酔木」に参加、戦後は自ら「天狼」を主宰した。ラグビーなどという季語を開拓して俳句に新天地を拓き、また連作に力を尽くした。その即物的な把握表現が多くのファンを魅了した。

 中国には征戦のために帰らざる戦士を詠った「凉州詞」「塞上曲」「塞下曲」「従軍行」等の詩が際限なくある。匈奴の北圧に悩んだ民族の歴史は古く、北方防衛は国家永遠の悲願であった。それが詩に詠われたのは当然である。「凉州詞」とは北方への玄関口凉州で詠われた詩の題だが、最も人口に膾炙されたのは王翰の七絶であろう。

 凉州詞 王翰

 葡萄美酒夜光杯, 葡萄の美酒 夜光の杯,
 欲飲琵琶馬上催。 飲まんと欲すれば琵琶 馬上に催す。
 酔臥沙場君莫笑, 酔いて沙場に臥すとも 君笑う莫れ,
 古来征戦幾人回。 古来戦に征き 幾人か回(かえ)る。

 胡応麟は『詩藪』の中で七絶の圧巻と推し、伝誦不絶。その妙は諧謔の辞を以て蒼凉の感を写しているという。又劉永済は三四句を絶賛し、「酒杯不軽放手之状可知」(酒杯手を放すに軽からざるの状知るべし)と評している。 極彩色の悲愴感というべきか。これに較べ山口誓子「木枯」の一句には、墨一色の絶望感が漂う。



029

飢せまる日もかぎりなき帰燕かな      加藤楸邨

 私の手元に昭和二十三年一月発行の加藤楸邨第七句集『野哭』がある。紙はセンカ紙で定価九十五円、戦後最も物資が不足した時代の刊行物だ。私を含めて昭和シングル世代には当時の飢えの記憶は大きい。少し後の後輩には、「ひもじい思いの体験がある?」と訊ねて世代を仕分けしていた。楸邨卒して十年、その存在は時間とともにかえって大きさを増す感さえあるが、この終戦前後の作品ほど強烈な印象を与えた作品群は無かった。
 冒頭に「この書を今は亡き友に捧げる。火の中に死なざりしかば野分満つ 楸邨」とのデディケーションがあり、次いで

昭和十九年五月二十三日夜、弟を負いて
   死を免る。一物も余さず
明け易き欅にしるす生死かな
一本の鶏頭燃えて戦終る
富士の紺すでに八方露に伏す
 わが家なき露の大地ぞよこたはる

と、終戦前後の作品群「流離抄」が始まる。終戦の記憶を持つ人口比率がどんどん減り、このような体験が風化しそうな時代が来つつあるが、楸邨の残した一群の作品は、民族の間に語り継ぎたい文学である。句集の後記に「野哭といふのは杜甫の詩にある。」という通り、杜甫には『閣夜』七律があり、流浪の楸邨が共感を得たことが解る。

  閣夜 杜甫

歳暮陰陽催短景 歳暮の陰陽 短景を催し、
天涯霜雪霽寒背 天涯の霜雪 寒背霽る。
五更鼓角聲悲壮 五更の鼓角 聲は悲壮に、
三峡星河影動揺 三峡の星河 影は動揺す。
野哭千家聞戦伐 野哭の千家 戦伐を聞き、
夷歌幾處起漁樵 夷歌は幾處か 漁樵を起さん?
臥龍躍馬終黄土 臥龍躍馬 黄土に終り、
人事音書漫寂寥 人事音書 漫(そぞろ)に寂寥。
      
  杜甫は戦乱を避けての流浪の生涯を送った。四八歳から五三歳まで成都にいた時だけが小康を得た時代だが、歳とともに帰郷の思い断ちがたく、五四歳のとき長江に沿って三峡を下った。大暦元年春から同三年正月まで瞿塘峡に近い□州県のあった西閣など三カ所を転居しつつ過ごした。□=キ。草冠+止+見+巳+夂。『閣夜』は西閣の夜の意。短景はわが国の短日である。野哭は戦死者を悼んで生存者が哭すること。この近辺には外来民族が多かったから、労働の際は夷歌が歌われるが、戦乱のためそれが起こることは殆ど無いのである。杜甫は三年後、洞庭湖畔まで下り五九歳の生涯を終えた。



030

風かなし夜々に欠けゆく月の形          暁 台

 加藤暁台は名古屋の人。尾張藩に仕えたが江戸詰にあったとき致仕し、巴雀・白尼門下として俳諧に入り、蕪村らとともに蕉風中興に努めた。暁台の業績で特筆すべきことは天明三年春、芭蕉の最後の定住地だった近江の幻住庵跡(大津市郊外)で芭蕉百回忌取越し追善法要「風羅念仏」を催したことであろう。暁台は発起人として全国を歩き芭蕉を慕う人々から物心両面の協力を集めた。経済的には蕪村の弟子でもあった京都大丸の一族、下村春坡らの協力が大きかった。

 暁台の句風は一見静かなおとなしいものが多い。この句もその典型といえる。満月を過ぎた月は一日一日欠けて行く。あまりにも当たり前のことで、どちらかといえば月を詠んだ句は月に何かを配して詠むのが普通である。これだけ月と独り対峙した句は珍しい。「風かなし」という導入部が句全体のペシミズムを支配している。作者の人生が投影された名句である。

 雪月花は風流の象徴といわれるが、現代生活で毎晩月を観察するのは難しい。第一生活の周辺には電光が有りすぎて、月は片隅に遠慮がちである。電気がないころ月がどれほど大きな存在だったかは、万葉集や古今・新古今の古歌を見ても想像に難くない。曾つてインドネシアにいた頃、スマトラのアサハン水力発電所工事の現場を見にいき、無月の漆黒の夜を車で帰ってきたが、現地人が無灯火で道を歩いているのに驚かされた。私達には全く見えないものが、彼等にははっきり見えているらしい。あの世界なら月が出たら昼の明るさにも似たものを感ずるであろう。

 月に最も親近感を抱いた詩人としては、何といってもまず李白を挙げねばなるまい。『月下獨酌』を見てみよう。

月下獨酌        李 白
 花間一壺酒、 花間 一壺の酒、
 獨酌無相親。 独り酌めども 相い親しむ無し。
 挙杯邀明月、 杯を挙げて 明月を邀え、
 対影成三人。 影も対して 三人と成る。
 月既不解飲、 月 既に飲むを解せず、
 影徒随我身。 影 徒らに我が身に随う。
 暫伴月将影、 暫らく月と影とを伴い、
 行楽須及春。 行楽 須らく春に及ぶべし。

  これも月と自分の間だけを詠んだ傑作である。李白には月の詩が多いが、これほどユニークな詩はないのではないか。花の下で独り飲んでいた作者が、いつの間にか月を相手に飲んでいる。それに作者の影が参加して三人になったという発想自体実に奇抜だ。月に「飲めというのに解らんか」といってみたり、影に「俺の真似ばかりするなよ」などといっているうちに酔いがすすんでいくらしい。虚構もここまで行くと神技というべきだろう。



031

冬蜂の死にどころなく歩きけり        村上鬼城

 明治三十五年(1902年)近代俳句の提唱者子規が没した。今から百年前のことである。高浜虚子が『ホトトギス』を継承して、すでに本拠を松山から東京へ移し、単なる俳句雑誌ではなく文芸雑誌として普及を目指していた。夏目漱石の『吾輩は猫である』はこの『ホトトギス』に連載され大好評を博したのである。これに刺激された虚子は自分も俳句から足を洗って小説家を目指し『ホトトギス』の主宰を河東碧梧桐に譲ってしまった。碧梧桐が新傾向俳句を提唱したため『ホトトギス』の影は一時薄くなる。虚子の文才は漱石に遠く及ばず、流石の虚子も大正の初めに到り小説をあきらめ『ホトトギス』選者に復帰する。当時これを支えたのが、渡辺水巴、村上鬼城、飯田蛇笏、前田普羅、原石鼎らであった。いずれも二十代の新鋭作家であったが、独り鬼城だけは文久元年生まれで、当時すでに五十代に近く虚子よりはるかに年上であった。鬼城は高崎裁判所の司法書士という地味な職にあった上に耳疾があった。しかし逆に不幸を梃子としてひたすら境涯、不具、貧者等を題材とした。しかしその句風は常に気力、気迫に満ち読むものの襟を正させたのである。

 春の夜や灯を囲みたる盲者達
 治聾酒の酔ふほどもなくさめにけり

 このような身障者を題材にした作品は、今日ならば表現コード違反で発表できないだろう。冒頭の蜂の句も境涯と二重写しになっている。蜂は働き者の代名詞となっているが、その果ての蜂の姿がここにある。花鳥諷詠を標榜する虚子も流石に鬼城には一目置いており、この句についても「人間その物が皆この冬蜂の如きものである。」と評している。
 晩唐の詩人羅隠に『蜂』なる七絶がある。

    蜂 羅 隠

 不論平地與山尖、   平地と山尖を論ぜず、
 無限風光盡被占。   無限の風光 占(たず)ね被(おお)い盡す。
 采得百花成蜜後、   采り得たり百花 蜜成るの後、
 為誰辛苦為誰甜。   誰が為の辛苦 誰が為に甜む。

 働き蜂は平地とか山岳だとか文句を云わない。無限の花野を尋ねて覆い尽くす。そしてやっと蜜を取り終えるのであるが、一体これは誰のためにする苦労で、誰のために舐めなくてはならないのだろうか?

 羅隠は833年生まれ。わが国の遣唐使は839年を最後に打ち切られた。唐の国勢が傾き、最早派遣の意味がなくなったからである。羅隠が没したのは909年というから、すでに朱全忠が唐の昭宗を殺して唐が滅亡した五年後のことである。詩が深刻な風刺で貫かれているのも時代の所為といえよう。

 時代も国も異なるが、蜂に寄せて境涯や社会を描こうとする詩人のあり方が興味を引く。



032

  家なしも江戸の元日したりけり    一 茶

 文化七年、一茶四十八歳の作である。故郷信濃を離れて俳諧師としてパトロンの家を転々とする生活に安定などある筈もない。家族と共に元日を過ごせない暮らしが何時まで続くのだろうか。この句は半ばは自嘲、半ばは諦観に近い一種の楽観さえ感じさせる。

  一茶のこの種の句は簡単に作られているように見えるが実はそうではない。この句も文化六年の句帳に「家なしの此身も春に逢ふ日哉」というスケッチがあり、一年後に完成度の高い冒頭句を成している。

 元日を家族とともに過ごす習慣は中国も同じである。ただ中国は今でも春節として旧正月を祝う。太陽暦を採用しても民族に染みこんだ季節感を国権で変更するという馬鹿げたことはしなかった。確かに今の正月は二十四節季でみると冬至と小寒の間あたりで、「迎春」とはほど遠い。正月祝いを新暦正月に移した明治新政府は「ご一新」を強調したかったのだろう。何せ廃仏毀釈という暴挙さえした時代である。俳諧ではその受け入れに苦労した。春夏秋冬の四季で編成される歳時記に「新年」という部を新設した。この「新年」に編入した季語は人為的な行事ばかり。季節感に乏しいのは当然である。

 曾つて私がP社にいたときのことである。中国から球形タンクを買い付けに来た集団の技術者三十人ほどが、三ヶ月間技術を学んでいて真ん中に春節が入ってしまった。一夜このメンバーを中華菜店に招いて激励会をしてあげた。水餃子が出るとメンバーの一人が感極まって「あと爆竹が鳴れば故国の春節と同じだ」と挨拶した。日本よりさらに家族・親族の結束が強い中国人にとって、元日を外国で送るのは特別の感慨があるらしい。
 元時代の耶律楚材は遠く尋思干(サマルカンド)に遠征中元日を迎えた。

壬午元日 耶律楚材

 西域風光喚、 西域 風光喚わり、
 東方音問疎。 東方 音問疎なり。
 屠蘇聊復飲、 屠蘇 聊か復た飲み、
 鬱塁不須書。 鬱塁 書するを須いず。
 旧歳昨宵尽、 旧歳 昨宵尽き、
 新年此日初。 新年 此の日初まる。
 客中今十載、 客中 今十載、
 孀母信如何。 孀母 信に如何。

  鬱塁(うつりつ)は邪を払う神で正月に桃符として書いて貼るが僻地では通用しない。
 耶律楚材はモンゴル系契丹族の貴族である。契丹は耶律楚材の父の時代、北宋を脅かす勢があったが、その後女真族の金に敗れ、その金もジンギス汗に圧迫された。耶律楚材は金に仕え、更に元に仕えるという目まぐるしい時代を過ごした。その類い希な才能をジンギス汗からも愛されたという。陳舜臣の労作『耶律楚材』に詳しい。この詩には外地で十年を過ごし遠い故国を思う孤独がにじみ出ている。耶律楚材三十三歳の作である。 


033

   雪はしずかにゆたかにはやし屍室       石田波郷

 昭和二十四年波郷三十六歳の作である。波郷は大正二年(1913)松山生まれ。上京して明治大学に入った昭和九年から秋桜子の『馬酔木』の編集に参画し、加藤楸邨、中村草田男とともに人間探求派といわれた。昭和十八年召集を受けて中国前線へ行き肺病を得て帰り、同四十四年(1969)死去するまで宿痾となった。この句は第五句集『惜命』に収められているが、前後はいずれも入院中の句であり、これも入院仲間の死に遭っての作であろう。

 「屍室」と古風に表現されているが病院の遺体安置室のことだ。窓の外は音もなく雪が降っている。字面だけから見ると雪が「しずかに」「ゆたかに」「はやく」降っている。漢詩教室の講義だったら、これは単なる「景」といわれるだろう。「情」を詠った字は一字もないからである。

 しかしこの句が波郷の全作品のなかでも、名作とされる所以は、この句に込められた深い感情に他ならない。

 この一句から日本人はいろいろなことを連想する。雪の「しずか」さから、昨日まで話をしていた一人の人が、口をきかなくなった現実を、雪の「ゆたか」さから故人の残していった思い出の大きさを、そして雪の降り方の「はや」さから、冷厳な事実の前を時が刻々と過ぎていく過程を感じている。そんなことは一字も述べられていない。ただ「屍室」という二字が続くだけでそう感じているのである。この手法は俳句という文芸の特色である。この部分は「実」でこの部分は「虚」といった分析では到達しない。大野林火は一九八〇年北京を訪れたとき、趙樸初らの詩人に対して「俳句とは景を述べて情を訴える詩である」と説明した。この波郷の句は、そのサンプルとして恰好な作品といえよう。

 雪に対して、同じく死者をふり返っている杜甫の『雪に対す』の構造を見てみる。

    対雪   杜 甫

  戦哭多新鬼, 戦哭 多くは新鬼、
  愁吟獨老翁。 愁い吟ずるは 獨り老翁。
  乱雲低薄暮, 乱雲 薄暮に低(た)れ、
  急雪舞廻風。 急雪 廻風に舞う。
  瓢棄樽無○, 瓢 棄てられて樽に○無く、
  炉存火似紅。 炉 存して火は紅を似(しめ)す。
  数州消息断, 数州 消息断ゆ、
  愁坐正書空。 愁い坐して正に空に書く。
  ○=緑−糸+シ。

 こちらは官軍が陳陶斜に敗れ四万の軍が潰滅したのだからスケールが違う。ここで論じたいのは、全てを語る詩の手法である。同じ早い雪でも「廻風に舞う」とまでいう。「はやし」としかいわない俳句の手法は、殆ど何もいっていないと映るかも知れない。だが杜甫は手元に書き付ける紙さえなく「空に書いた」と結んでいる。紙がなかったとは書いていない。これがむしろ俳句の手法に近い。「詩俳同牀」も書き始めてやがて三年。詩と俳句は「同牀異夢」だと評する人もいる。表現方法は根本的に異なる。だが詩心は同じだ。


034

   春寒やセエヌのかもめ目ぞ荒き  小池文子

 俳句の海外詠に録な作品がないのは何故だろうか。俳句は極端な短詩型だから物言わぬ部分で表現しなくてはならない。だから季語を含めて可能な限り約束事を利用する。ところが海外では生活の場が異なるから約束事が通らない。仮に作者が準備しても読者には通じず、作品は深層に達することができない。山口誓子が十数回も海外旅行しながら一句も詠まなかったのは賢明だったかも知れない。しかし海外詠を成立せしめる条件がないわけではない。作者が現地に永年住み、現地の歴史や文化に通じ、言語をものにして、しかもそれを日本語の短詩にまとめて行けば成立することを小池文子が実証している。

 小池は画家の夫を追ってパリに移住するが棄てられて一人異国で暮らす。その淋しさの中から海外詩としての俳句が生まれて行く。同じセエヌの鴎でも観光客が見るのとは違って見えて来るのである。筆者もセエヌ河畔は何回かスケッチし風物は穴があくほど見た積もりだったが、鴎の目が荒いかどうか思い出せない。やはり何度か身を投げるほどの苦しみを味わった主観の表現なのであろう。

   唐辛子ぽつりと巴里に発句なす

   茄子煮るや気付けばしんと巴里なりき

 恐らく当時の作者にとって俳句が唯一の救いとなったのであろう。文子は大正九年生まれ、石田波郷につき昭和二二年『鶴』同人。三〇年第一回角川俳句賞を受賞した。その後フランス人と結婚、巴里俳句会を主宰してきた。

 漢詩は論理の上に構築できるから海外詠が比較的容易である。わが国でも成嶋柳北や森鴎外に多くの海外作品がある。鴎外がドイツ留学途上香港で詠んだ七絶を見てみる。

無題 森 鴎外

山肴海錯玉為堆, 山肴海錯 玉 堆を為し、

回想寒厨獨自嗤。 回想す 寒厨 獨り自ら嗤う(わら)うを。

有奴引索揺雙扇, 奴有りて索を引き 雙扇を揺かせば、

自吾頭上送涼来。 吾が頭上より、涼を送り来たる。

 現在でも香港の美食は世界に冠たるものだが、粗食の明治の日本人から見たら豪華絢爛たるものだったに相違ない。自分の寒厨まで引き合いに出す余裕が詩に厚みを加えている。一方、林林がナイル川で詠んだ七絶は、眼前の風景から古代へと想いが及ぶ。

  游尼羅河    ナイル河に游ぶ     林 林

 流程北向到開羅, 流程 北に向いて開羅(カイロ)に到り、

 岸畔往年泛濫多。 岸畔 往年 泛濫多し。

 可喜豊穣魚米好, 喜ぶべし 豊穣 魚米は好く、

 浮游波上有天鵞。  波上に浮き游ぶ 天鵞の有るを。

 

 


035

 磨崖佛おおむらさきを放ちけり        黒田杏子

 オオムラサキは日本の国蝶である。昔は多摩の野山でいくらでも採れたが 開発が進みいなくなってしまった。中央本線も日野春まで行くと今でも多く 棲息しており、オオムラサキ・センターで各地の標本を見ることができる。

 理屈からいえば磨崖佛が蝶を放つわけはない。そこが詩である。磨崖佛が 放つ蝶だから、あんなに大型なのだと納得させられてしまう。この句から、 曾つて春先の室生寺を訪ねた時を思い出した。川岸の大野寺の枝垂桜が
咲き乱れ、対岸の磨崖佛が迫って見えていた。

 黒田杏子は東京女子大在学中、山口青邨の指導を受け俳句の道に入った。蝶を詠んだ俳句には佳句が少ないように思う。多分最も人口に膾炙したのは

初蝶やわが三十の袖袂   石田波郷

ではなかろうか。人生の節目を見事に描いてみせた句である。一方中国には 「人生七十古来希」と詠った杜甫がいる。この律詩の題『曲江』は古都西安の紅灯の巷、乾元元年(758)杜甫四十七歳の作である。ここにも蝶が登場する。

曲 江 杜 甫
朝回日日典春衣、 朝より回(かえ)りて日日 春衣を典し、
毎日江頭尽酔帰。 毎日 江頭に酔を尽して帰る。
酒債尋常行處有、 酒債 尋常 行く處に有るも、
人生七十古来希。 人生 七十 古来希なり。
穿花□蝶深深見、 花を穿ちて□蝶は 深深として見、
点水蜻◇款款飛。 水に点じて蜻◇は 款款として飛ぶ。
伝語風光共流転、 伝語す 風光は共に流転すれば、
暫時相賞莫相違。 暫時 相賞するを相違うこと莫れと。
     □=虫+夾。◇=虫+廷。

 朝廷から戻って来ると制服を質に入れて飲みに行く。ツケの残高(酒債)は 随所にあるけれど、人生はどうせ七十なんて生きる人は殆どいやしない。

 蝶は花にもぐって深くまで覗き、蜻蛉は水に接して喜んで飛んでいる。いっておくがね、世は生々流転、今こそ賞すべきなのだ、約束を守れよ。杜甫にしては、いかにもデカタンスが横溢した一詩という他はない。

 古希を祝う習慣はいうまでもなくこの詩に基づく。しかし古希があり得ない否定的な意味で使われていることを何人が知っているだろうか。

 更に喜寿、米寿、傘寿、白寿等はみな和製語で中国にこんな習慣はない。しかし日本に詳しい林林先生は、近著自伝『八八流金』後記でこう述べている。

 1998年私は丁度八十八歳、米寿の歳となり、そこでこの本に『八八流金』と名付けました。生涯をふり返ると多くの同輩文化人に比べ、私の一生はとりわけ波乱が多かったわけでなく、むしろ二十世紀の不幸で困難な運命と緊密に結ばれ、苦楽を共にしてきたのです。過去を顧みるのは前進するためです。勇を奮って新時代へ踏み入ろう。(1998年我正値八十八歳“米寿”之年、故命書名為『八八流金』。回首平生、与同輩的許多文化人相比、我的一生雖然没有太多波折、但却是和二十世紀坎軻多艱的命運緊密相連的、是与時代休戚与共的。后顧是為前瞻、奮勇踏入新時代。)流金焦土という言葉がある。地を焦がす炎熱を意味するらしい。

 

036


 海市消え買物籠の中に貝        中嶋秀子

 幻影と現実、遠景と身辺。雄大な海市に買物籠の貝を対比させた上手い句だ。富山湾の魚津が海市の名所だという。過日東京駅で富山観光の宣伝嬢が魚津の散らしを呉れた。どうすれば海市が見られるか訊いたら「実は私も見たことないのですよ」といっていた。(註:海市とは蜃気楼のこと) 

 福永武彦の代表作『海市』は、画家が伊豆の海で海市に遇うところから始まり、その直後ひとりの美女に会う。画家には海市が家に見えたが、女は顔に見えたという。その頼りない印象が安見という不思議な女との契りと重なって夢幻の境地を描いて行く。著者はこの魅力的な小説の巻頭に蘇軾の『海市』古詩二十四句のうちの冒頭五句を掲げている。

 東方雲海空復空、 東方 雲海 空復た空、
 群仙出没空明中。 群仙出没す 空明の中。
 蕩揺浮世生萬象、 浮世を蕩揺して 萬象を生じ、
 豈有貝闕蔵珠宮。 豈貝闕の 珠宮を蔵する有らんや。
 心知所見皆幻影、 心に知る 見る所皆幻影なるを、
 ・・・・・・・   

 そもそも中国の詩詞で海洋を詠んだものは極めて珍しく「海」は通常湖のことである。蘇軾はこの詩を元豊八年(1089)登州(現山東省蓬莱県)で詠んだ。前文によるとかねて春から夏にかけて渤海湾に海市が出現すると聞かされていたが、時は十月であり無理といわれた。そこで海神廣徳王の廟に祈ったらその翌日海市が現れた。詩は続けてこう詠う。

 敢以耳目煩神工。 敢て耳目を以て 神工を煩わす。
 歳寒水冷天地閉、 「歳寒く、水冷かに 天地閉せども、
 為我起蟄鞭魚龍。 我が為に蟄を起して 魚龍を鞭うて。」

 「水が冷たくて季節はずれであるが、どうか私のために蟄を啓いて魚龍を鞭打ってくれ」というのである。するとこの祈りは海神の容れるところとなった。

 重楼翠阜出霜暁、 重楼 翠阜 霜暁に出で、
 異事驚倒百歳翁。 異事 百歳の翁を驚倒せしむ。

 詩は更に奇跡の出現に対する感極まった句が続くのであるが、最後は次の如く締められている。秀子の買物籠の貝、福永武彦の安見との契りと比べて興味尽きないものがある。

 斜陽萬里孤島没、 斜陽 萬里 孤島没し、
 但見碧海磨青銅。 但見る碧海 青銅を磨くを。
 新詩綺語亦安用、 新詩 綺語 亦安んぞ用いん、
 相與変滅随東風。 相與に変滅して 東風に随わん。

 

037


 高嶺星蚕飼の村は寝しづまり          水原秋桜子

 大垂水峠千木良村の夜景。大正十四年の作。俳句といえば「わび」「さび」の世界と思われて来たのに、ここではヨーロッパ的な絵画手法が導入されたとして一世を風靡した。当時は『ホトトギス』の全盛時代、四Sといわれた秋桜子、誓子、青畝、素十の四人が、新鋭作家として脚光を浴びていた。なかんずく秋桜子の新しい耽美主義は人気があった。

 しかし虚子は次第にこの傾向を「写生」にあらずとして批判するようになり、ついに秋桜子は『ホトトギス』を離脱し自己の主宰する『馬酔木』による。ついで誓子も離脱した。『ホトトギス』はこの頃から新しい風には眼を封じ、家元制度風の体質を強めて行った。

 今となってはこの秋桜子の一句さえ、俳句史に残るほどの新しさを持つかどうか疑問である。秋桜子の耽美主義の限界のようなものさえ感じられてくる。

 一つには蚕業が日本から失われてしまったこともある。戦前まで生糸はわが国ダントツの外貨稼ぎ産業であった。秋桜子が詠んだ風景は、当時蚕業で信州や北関東の農家が潤った時代の新しい風景だった。今では蚕が俳句に登場することはまず無いといっていい。

 だがもう一つの問題は作家の諷詠の態度にある。現実には「蚕飼の村が寝しづまる」ことはあり得ない。食欲旺盛な蚕のために夜っぴいて新鮮な桑の葉を供給しなくてはならないのだ。すでに十四世紀の詩人高啓は、それを『養蚕詞』に詠んでいる。

養蚕詞     高 啓
 東家西家罷来往、 東家も西家も 来往を罷め、
 晴日深窓風雨響。 晴日の深窓 風雨響く。
 二眠蚕起食葉多、 二眠より蚕起き 葉を食うこと多く、
 陌頭桑樹空枝柯。 陌頭の桑樹 枝柯を空しうす。
 新婦守箔女執筺、 新婦は箔を守って 女は筺を執り、
 頭髪不梳一月忙。 頭髪梳かず 一月忙し。
 三姑祭後今年好、 三姑の祭後 今年は好し、
 満簇如雲繭成早。 簇に満ちて雲の如く 繭の成るは早し。
 檐前操車急作絲、 檐前の操車 急ぎ絲を作るは、
 又是夏税相催時。 又た是れ 夏税 相い催すの時。

 これが養蚕農家の実像であろう。深夜も多忙で蚕が桑を食う音が風雨のようだというのである。無論、俳句という超短詩型をこれに比べるのには限界はある。ここでは休みの無い苛酷な労働から最後は役人の徴税まで詠われているのだから。

 ただ秋桜子の世界は、表面の耽美に終始して農村の生活には全く眼を向けない。詩にとって美が大事なことはいうを待たないが、もっと大事なのは真実であろう。実は次の時代の中心作家となる楸邨や波郷が、やがて『馬酔木』門下から去って行くのも、人生や生活にあまりにも超然とした秋桜子の耽美主義に飽き足らなかったからに他ならない。

 

038


  心太さかしまに銀河三千尺    蕪 村

 蕪村の登場である。芭蕉と並ぶこの俳哲は、まさに底知れぬ才能の芸術家であった。

 明治になって正岡子規は芭蕉を排して蕪村を賞揚したが、その趣旨は蕪村から客観写生を学べというものだった。果たして蕪村は客観写生の俳人だっただろうか。この見立ては蕪村の僅かな一面しか見ていない。蕪村はもともと画家だ。画家である以上スケッチは基本だ。だがそれは一面に過ぎない。

蕪村のような文人画家は変幻自在、筆を執れば字(詩)になることも画になることもある。それが文人の心である。蕪村には、『おくの細道』の画文を描いた有名な作品がある。彼はわざとカリカチュア風の表現を用いている。芭蕉を尊敬してやまなかった蕪村の心がひしひしと伝わってくる。そんな表現すらいとも簡単になし得たのである。又、有名な『夜色楼台雪万家』なる墨絵大作がある。あれは心眼が描いた無言の詩である。雪の夜を客観写生なんて出来るわけがない。

 日本では文人画は明治の富岡鉄斎を最後として絶えてしまった。多くの門人が鉄斎を尋ねて「画が上手くなるには、どういう修業が大事か?」と質問した。すると鉄斎は「画の修業などは一切いらない。教養を積め」といったという。これこそ文人の精神だろう。1986年鉄斎展が上海美術館で開催され、その教養と芸術は現代中国人を魅了した。だが現代日本の東洋画家や書家たちは教養を積まずdrawing に徹している。

  詩を知らずに軸書する書家も少なくない。かくして文人書画は滅亡したのである。古今の典籍に精通していた蕪村のような詩人画家の心を覗くことは、今日の教養からは可成り難しいのかも知れない。

 この心太の一句にしても、李白の廬山瀑布を心太に見立てたパロデイーだが、何と原詩よりも文芸性を帯びて読者に迫ってくるから不思議である。もう一度原詩を見てみよう。

望廬山瀑布其二  廬山の瀑布を望む 李 白

 日照香炉生紫煙,   日は香炉を照らして 紫煙を生じ,
 遙看瀑布挂前川。   遙かに瀑布を看れば 前川に挂る。
 飛流直下三千尺,   飛流 直下 三千尺,
 疑是銀河落九天。   疑うは是 銀河 九天より落ちると。

 子規の客観写生の継承者であった虚子でさえ、この一句には脱帽している。

  「詩は滝を詠じたので其を銀河九天といったのさへ既に仰山な比喩であるのに、更に其を心太に持って来たのは極端な比喩といはねばならぬ。滝の比喩では壮大な勢を形容した方が真面目であるのだが、心太の比喩に至っては頓に滑稽となっている。ここが俳諧手段で心太というやうな卑近な手軽いものを持って来て、重々しい銀河三千尺といふやうな語に一頓挫を与へる、俳句としての趣味は其処に生じるのである。尚一方からいふと、心太といふやふなものは兎角卑俗な繊弱な句になりやすひ、其を極端に銀河などに喩へて高尚遵勁な句にしている其処も此句の面白い処である。」(高浜虚子『蕪村句集講義』夏の部)

 この鑑賞自体表面的で繊弱な気がする。「客観写生」などというのは所詮書生指導の第一課というべきであろう。

 

039


 炎天へ打って出るべく茶漬飯     川崎展宏

 加藤楸邨門下には個性豊かな作家が蝟集した。無論人間性に富んだ楸邨の魅力がそうさせたのであるが、一つには昭和後半の俳句界をリードしてきた人間探求派のうち、波郷が昭和四十四年に、草田男が五十八年に他界し、平成まで生き延びた師として仰げる実力俳人は、楸邨ただ一人となっていたという事情があった。矢島渚男のように『鶴』から転入する者、或いは沢木欣一や原子公平のように、草田男・楸邨双方に師事していた者などを含めて、多くの俳句作家が、『寒雷』の一大潮流に合体して行ったのであろう。そこには金子兜太、森澄雄、田川飛旅子、和知喜八、古沢太穂、安東次男、平井照敏、斎藤美規、中嶋秀子等々個性を競う作家は枚挙に暇ない。川崎展宏もまた意外性のある作品を見せる。

 「打って出る」目的は何かわからない。営業活動か選挙戦か、何でもいい。そのエネルギーを補填するのに茶漬飯で大丈夫か? と心配する向きもあるかも知れない。

  しかし炎天下では食欲だってモリモリとは行かない。そこで茶漬けとなる。桶狭間の信長だって「湯漬けを持て」で打って出たではないか。日本人の臨戦食にこれほど合ったものはない。

  物を食いつつ何かを覚悟する。そんな例が中国にあっただろうかと考えていたら、蘇軾に『食茘支』なる七絶があるのを思い出した。



 食茘支  茘支を食う     蘇軾

 羅浮山下四時春, 羅浮山下 四時の春,
 廬橘楊梅次第新。 廬橘 楊梅 次第に新なり。
 日啖茘支三百顆, 日に啖(クラ)う 茘支 三百顆,
 不辞長作嶺南人。 辞さず長らく 嶺南の人となるを。

 蘇軾は新法派と旧法派との政争に再三翻弄され、五十九才で恵州に流される。羅浮山とは恵州の近く、当時でいえば正に瘴癘の地だが、茘支はそこにしかない。しかも鮮度を保つことは難しい。最近でこそ生鮮品を空輸して来るが、以前は冷凍品しかなかった。玄宗皇帝は楊貴妃のために、広州から西安へ馬を乗り継がせて茘支を求めたといわれている。

 そんな恵州に流刑の身となった蘇軾は、「よーし、一日に三百個の茘支を食って、嶺南の人になりきってやろう」と強がりをいっているのである。その覚悟は実は悲壮だ。展宏の茶漬飯とは覚悟のケタが違う。だが南洋の果物が美味いのも事実だ。「四時の春」だから何時でも食える。四十九才でジャカルタに赴任した小生にも多少の共感がある。茘支に近い味といえば、ジャワならマンゴスチン、ランブータン、デゥクなど。二十年ほど前パリのレストランにマンゴスチンが飾られていて驚いたがアフリカ産らしい。最近東京にも生鮮品が現れるようになった。日本では大変高価なものだが楊貴妃でなくても買える。

  蘇軾は六十三才で更に南の海南島に流される。六十五才で許されて自由の身となり、六十六才で大陸へ辿り着くが常州まで戻った處で遂に都を見ずに没した。今日蘇軾の人気が衰えないのは、無論詩詞が優れているからであるが、志を貫いた生き様にもその一因があるのだろう。

 

040


 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉     芭蕉

  延宝八年(1680年)日本橋界隈で相当の門人を擁していた俳諧宗匠松尾桃青は、両国橋を渡って深川の芭蕉庵に移り住んだ。隅田川の東は下総国、西は武蔵国、これを結ぶ橋が両国橋である。下総国葛飾郡は非常に広く、利根川(現江戸川)の西を葛西、東を葛東と呼んでいた。明治の廃藩置県のとき一旦葛飾県となり、後に葛西が東京府に葛東が千葉県に編入されたのである。芭蕉が深川の草庵に引きこもったのは、「天和期の混沌たる俳壇に対する抵抗ばかりでなく、彼自身の内面的矛盾を切る」ためと中村俊定氏はいう。

 今日では芭蕉を「わび」の俳人とするのが受験生の常識だが、尾形仂先生によると芭蕉が「侘び」の語を用いたのは、冒頭の「野分」句と同年作った次の句が嚆矢だという。

 侘テすめ月侘斎がなら茶歌      芭蕉

  これを収録した『蓬莱島』によると「月をわび、身を侘、つたなきをわびて、わぶとこたへんとすれども、問人もなし。なをわびわびて」という前書きがある。すなわち「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつ侘ぶと答へよ」の作者、在原行平(業平の兄、須磨に隠棲)を気取ってみても、深川に隠退した自分を気遣う人などいない、という趣旨である。最後の「なら茶歌」というのは俳席のなら茶飯を食って歌う歌のことだそうだ。

 一方、冒頭の「野分」の句を収録した『伊勢紀行』(禹柳編)には「老杜茅舎破風の歌あり、披翁ふたたび此句を侘て、屋漏の句作る。其世(ママ)の雨をばせを葉にききて、独寝の草の戸」の前書きがある。この茅舎破風の詩とは上元二年(761年)成都の草堂で杜甫が詠んだ『茅屋為秋風所破歌』を指す。古詩二十三句から成り全編を引用できないが

     茅屋為秋風所破歌 杜甫

 八月秋高風怒号   八月秋高くして風怒号す
 巻我屋上三重茅   我が屋上三重の茅を巻く
 茅飛渡江灑江郊   茅飛びて江を渡り江郊に灑(そそ)ぐ
 ・・・・・・・
 牀頭屋漏無乾處   牀頭屋漏れて乾く處無し
 雨脚如麻未断絶   雨脚麻の如く未だ断絶せず
 自経喪乱少睡眠   喪乱を経し自り睡眠少し
 長夜沾湿何由徹   長夜沾湿何に由りてか徹せん
・・・・・・・

 と嵐の悲哀を歌う。芭蕉が「野分」の句を詠んだ脳裏には、九百年の時空を超えた先人の「牀頭屋漏」すなわち雨漏りのリズムがあったのだろうか。「盥に雨を聞く」でそれを表現したのは流石である。蕉風の真髄はその後、『冬の日』や『野ざらし紀行』を経て、たゆまぬ芭蕉の研鑽により完成されて行き、遂に『おくの細道』に到るが、深川隠棲時代が大きな転機であった。この「野分」の句はその寂寥を記念する一句となった。

 

041


秋袷育ちがものをいひにけり   久保田万太郎

  久保田万太郎は1889年東京生まれ。大正3年慶応大学文学部卒。永井荷風に師事、小説家、劇作家であるのみか演出家としても活躍し、1957年文化勲章受章した。江戸下町の義理人情を描いて独自の作風を築いた。俳句は中学時代から詠み『春燈』を創刊主宰した。俳号は傘雨。

  秋袷とは、和服の習慣のなくなった今日、馴染みのない季語である。「袷」は夏の季語で、春秋にはそれぞれ「春袷」「秋袷」がある。袷(あわせ)とは表と裏があるからそういうのであって、それが夏の季語なのは何故だろうか。そもそも綿入れの綿を抜いた袷を「綿抜」といい、夏着用したから夏の季語となったらしい。俳句歳時記には「素袷は襦袢無しで膚にじかにつけることで、何となくだらしがない」という解説がある。そういう夏が過ぎて秋に着る袷となると、それなりのセンスを必要とされる。それがないと「育ちが割れてしまう」のである。秋のファッションには最も繊細なセンスを要求されるということだ。

  熙寧6年(1073年)の秋、病を得て静養中の蘇東坡は西湖の南にある祖塔院に遊んだ。『病中游祖塔院』は、その時詠まれた七律である。

病中游祖塔院 病中祖塔院に遊ぶ   蘇 軾

紫李黄瓜村路香, 紫李 黄瓜 村路香ばしく,
烏紗白葛道衣涼。 烏紗 白葛 道衣涼し。
閉門野寺松陰転, 門を閉ざせる野寺に 松陰は転じ,
欹枕風軒客夢長。 枕を欹てる風軒 客夢長し。
因病得閑殊不悪, 病に因り閑を得たるは 殊に悪しからず,
安心是薬更無方。 心を安んずるは是れ薬 更に方無し。
道入不惜階前水, 道入 階前の水を惜しまず,
借與匏樽自在嘗。 匏樽を借與して 自在に嘗めしむ。

  秋の村路を行くと紫の李、黄色の瓜が熟れて、烏紗と白葛の道衣が涼しい。野の寺を閉じると松の陰が移り、枕から風に耳をそばだてていると旅人の夢を妨げるものはない。病を得たのは殊に悪いわけではない。心を安んずるほどいい薬は他にないのだから。お坊さんは杓と樽を貸して呉れ、庭先に湧く清水を惜しみなく自由に飲ませてくれる。

  この詩だけみると、人生の秋を告げるような静謐の気分が淡々と歌われているように見える。実はこの時作者は何と38歳。「水光瀲艶晴方好,山色空濛雨亦奇。欲把西湖比西子,淡粧濃抹総相宜。」と西湖の美を西施の美貌に喩えたのと同時代なのである。

  烏紗白葛の道衣というのはどんなものだろうか。黒い紗の帽子と白い葛縫いの上衣のことで、道衣は官服でないゆるやかな上着らしい。ネクタイを締めない自由がそこにある。秋の涼しさを表すカジュアルは、万太郎の秋袷に通じるといえるだろうか。

 

042


 鶴啼くやわが身のこゑと思ふまで    鍵和田釉子

 鶴は日本へ来る渡り鳥の中でも最大級の鳥である。秋シベリヤから群れをなして渡来し、刈り取りを済ませた田に細く長い脚で降り立ち、落ち穂を拾って食糧とする。

 その美しい姿や大きな鳴き声は古来日本人の心をとらえ、しばしば詩歌に歌われて来た。現代人では殊の外鶴を愛した俳人に石田波郷がいる。主宰誌は『鶴』であり、句集にも『風切』などがある。これは鶴の風切羽からとったものである。韻文精神の追求に熱心だった波郷は、細い首から絞り出す鶴の鳴き声に、真実を吐露する詩人の宿命を重ねていたのかも知れない。

 鍵和田釉子は昭和七年生まれ。お茶の水大学出身。俳文学者尾形仂氏から俳句制作を薦められ、紹介を受けて中村草田男の門を叩いた。『萬緑』の同人となり、草田男の没後は自ら『未来図』を創刊主宰。古典俳諧研究を極め、その上に現代感覚を使う重厚な作品が多い。この句も鶴の鳴き声を聞き、自分の中に湧き出る感情を重ねて纏めた佳句であり、老練ともいえる表現である。

 中国で鶴を愛した詩人といえば、北宋の林逋(りんぽ)を挙げねばなるまい。林逋は一生仕官せず、西湖の孤山に廬を結び、生涯結婚せず梅と鶴を愛し、「梅妻鶴子」と呼ばれた。詩は当代随一だったが作詩するとすぐ原稿は棄ててしまったという。ある人がそのワケを聞くと、「この世に名を得る気がないのに、ましてや後の世に名を残すことがあろうか」といったという。それでも棄てた草稿を拾って歩いた人がいて三百ほどの作品が残された。名が残り、さぞかし本人は不本意だったことだろう。

 そういえば蕪村も「発句集はなくてもありなんかし。世になだたる人の、其句集出て、日来の声誉を滅するもの多し、況、汎々の輩をや」といっていた。自費出版ばやりの昨今いずれも傾聴に値する言というべきではある。

さてその林逋の鶴の詩から一首。

   鳴皐   林 逋
 皐禽名□有前聞, 皐禽 名は□ 前に聞くあり,
 孤引圓◇夜正分。 孤り円◇を引きて 夜 正に分つ。
 一唳便驚寥沈破, 一唳 便ち驚ろかして 寥沈破れ,
 亦無閑意到青雲。 亦閑意無く 青雲に到る。

 皐禽(こうきん)は鶴のことである。□(し)という鶴の名は前から聞いていた。円かな◇というのは鶴が九回も続けて鳴くからで、その声が夜の空気を破る。ひと鳴きで人を驚かせ気落ちした静けさは破れ、閑適に過ごそうとはせず青雲に富んで行く。

 この詩を読んでいると、林逋は閑適に甘んじようとしない鶴の性格に感動しているようである。逸話に残されているような世捨て人のごとき性格ではなく、意外と反骨精神に富んでいた人だったのかも知れない。

 

043


  大みそか定めなき世の定めかな 西 鶴

 西鶴が描いて見せる「浮世」とは江戸時代以前の文学には存在しない概念だが、精神の系譜としては、戦乱に明け暮れペシミズムに打ちひしがれた中世の「憂き世」を継承し変換させたといわれる。「定めなき世」という概念も同質のものであろう。しかし、大晦日ともなると、大家にはご挨拶、借金取りもやって来る。「定め」を果たさなければ年が越せない。「定めなき世」の筈だが金銭の「定め」は厳然とあるのである。

 井原西鶴は松尾芭蕉、近松門左衛門と並んで、元禄の三大作家と謳われる。徳川家康が天下を治め民衆に平和が訪れてから八十年。世間が漸く安定し、民衆文化が花と咲いたのが元禄時代である。民衆の世界は天国だっただろうか? そこには已に士農工商の厳しい世襲階級社会が誕生し、早くも初期資本主義の激しい貧富の差が生じていた。西鶴が『好色一代女』に描いた愛欲の主題も、『日本永代蔵』に描いた金銭の主題も、言うなれば新興町人社会の浮世を描いた文学である。西鶴が今日元禄の大作家として名を残しているのは、いうまでもなくこれらの小説によるのだが、一連の作品を書き出したのは四十歳のことであって、没年は五十二歳だから、僅か十年そこそこの期間に書き残したものである。

 西鶴は曾つて貞門の俳諧師であったが、西山宗因を知り句風を一変させ貞門を追放される。その後一派を興し一夜独吟四千句などという怪挙を果たしたりする。こういう異常な行為はやがて散文の世界に転身する過程だったのだろう。

 元禄時代は中国では清の康煕帝時代に当たる。清には西鶴とほぼ同時代を生きた詩人に沈受宏がいる。歳末旅先から妻女に送ったといわれる「示内」という七絶がある。 

   示内 内に示す 清 沈受宏

莫歎貧家卒歳難, 歎く莫れ貧家 歳を卒(お)うるの難きを,
北風曾過幾番寒。 北風 曾て過ぐ 幾番の寒。
明年桃柳堂前樹, 年を明くれば 桃柳 堂前の樹,
還汝春光満眼看。 汝に還さん 春光 満眼の看。

 こちらも年を越すのは難しいが、妻女へのメッセージは到って率直だ。「今までも何回も同じ思いをしたではないか。きっと春が明ければ堂前の桃柳が春を見せてくれるよ」というもので、西鶴の「定めなき世の定めかな」というのとは大分違う。「桃柳堂前樹」の一句は、陶淵明の「楡柳蔭後簷,桃李羅堂前。」(楡柳 後簷を蔭い,桃李 堂前に羅る。『帰園田居・其一』)を踏まえているのだろう。

  無論俳句と七絶という短詩の形式の差もあるが、同時に時代背景の差もある。わが国の元禄時代は、長年の戦乱を脱した文化爛熟期であった。一方、清国の康煕帝も二代後の乾隆帝(わが国の蕪村の時代)が清国の最盛期を迎える前夜にあった。聡明な康煕帝は少数民族による漢民族統治に腐心した。それでも支配された漢民族の間には不満が鬱積していたのである。「北風曾過幾番寒。」の一句にはその悲哀が隠されているように思える。これに較べると西鶴は斬新であるが、単一民族の歳事の範囲を超えるものではない。

044


  世の中に馴れぬごまめの形かな      正岡子規

 暮れの内、国際俳句交流協会の宮下恵美子さんから恒例の卓上カレンダーが送られてきた。各月に子規の作品が選ばれて英訳が載っている。掲記の句が一月である。「上手いなあ」と、まず子規の原作に脱帽する。英訳はこうなっている。

In the world
how uncouth the shapes
of New Year's sardines

「馴れぬ」が甚だ意味深長で翻訳不能ともいえる。苦心のuncouth という語は「洗練されていない」というほどの意味らしい。単なるごまめを見ての写生とすれば正解かも知れない。この句の真意は果たして人間から見たこの解釈だけに止まるのだろうか。それを解く鍵は上五の「世の中に」にあるように思える。ごまめが人間の世界に馴れないでいる心を詠んだのではないだろうか。

 正月料理の「田作り」は、わが家では今でも家内が作る。例年旨いとして兄弟姉妹の家からリクエストがある。最後に一瞬にして飴をかけて胡麻に塗すのが秘法だという。その前にとろ火で三十分もごまめを炒るのを手伝わされる。三十分も炙っていても、ごまめは「世に馴れない」形を変えない。ごまめにはごまめの世界があるのであって、軽々に人間の世には馴れないのだと思う。

  子規はこのごまめの姿を見て世の中に馴れない自分の姿を重ねているのではないだろうか。漢詩の世界ではこれを興という。葛飾吟社に送られてきた王敬愚先生の詩に蠹虫なる七律がある。

蠹虫 王敬愚

 光滑嬌柔小蠹虫,常将巨眼故朦朧。

 銅頭鉄嘴剖□急,俐歯伶牙◇◆凶。

 箱篋容顔依旧貌,板材臓腑已然空。

 勧君莫喜外観美,牢記周○自刻功。

□=金+占。◇=歯+奇。◆=歯+乞。○=禾+重。
 
 蠹虫とはどんな虫だろうか? 辞書によるとキクイムシとなっている。銅の頭と鉄の嘴で食い荒らし、本箱は表は元の儘だが、臓腑は空っぽになっている。外観の美に喜んではならない。牢記せよと周◯は自ら記していると警鐘を鳴らしている。

 この詩も人間が虫を観察した記録であり、結聯では注意書きまで添えてある。実は表面を飾って内容がない人物への戒めであろう。ただこれに較べて先の子規の一句を見直すと、ごまめの側から見たユーモアが感じられる。そこに俳味があるのだろう。俳も諧ももともと「おどけ」の意である。

 

045


枯野ゆく鳴りを鎮めし楽器箱          平畑静塔

 バンドかオーケストラかわからないが、楽団の移動の情景だろう。楽器は演奏家の手に掛かって始めて音を発する。楽器箱にしまわれていては単なる荷物に過ぎない。それが積み重ねられて、しかも枯野をゆく光景は一種の殺伐さを感じさせる。「鳴りを鎮めし」という中五にエネルギーを凝集したその異常さが上手く表現されている。

 平畑静塔は本名富次郎、明治三八年生まれ、大正の末旧制三高在学中俳句を始めた。京都大学に進み『京大俳句』の創刊に係わる。やがて京大とは関係のない西東三鬼や斎藤玄らまで巻き込んで関西に新興俳句の新風を起こす。 昭和十五年静塔は官憲に検挙された。『京大俳句』創刊の趣旨にあった「自由」とか「結社」の語が「治安維持法」違反と認定されたというのである。

  詩は象徴を用いることがある。ましてや俳句のような短詩では、言外のイメージが大きいから、弾圧を受けたら何をどう解釈されるかわからない。何とも恐ろしい暗黒の時代である。この句を見ていると、鳴りを鎮めた楽器の情景が、まるでその時代を引きずっているようにさえ思えてくる。

 楽器は鳴りを鎮めているとき、却って詩人の想像力をかき立てる。亡き妻の瑟を前にして晩唐の詩人李商隠が詠んだ次の七律『琴瑟』は有名だ。

   琴瑟 李商隠

 琴瑟無端五十絃, 琴瑟 端無くも 五十絃,

 一弦一柱思華年。 一弦一柱 華年を思う。

 荘生暁夢迷胡蝶, 荘生の暁夢 胡蝶を迷わせ,

 望帝春心托杜鵑。 望帝の春心 杜鵑に托す。

 滄海月明珠有涙, 滄海 月明らかに 珠は涙を有し,

 藍田日暖玉生烟。 藍田 日は暖かに 玉は烟を生ず。

 此情可待成追憶, 此の情 追憶を成すを待つ可けんや,

 只是当時已惘然。 只是れ 当時 已に惘然。

 

 司馬遷の『史記』の記するところによると、昔天地の神楽を司った伏義は、宮女に五十絃の瑟を弾かせていたが、その音色のあまりの悲しさに瑟の使用を禁じてしまった。しかしそれが守られないため、五十弦を半分の二十五弦に減らしたという。

  ここでは作者が亡き妻の瑟を前にして、その一弦一柱に往年を偲ぶ。荘生は『荘子』に登場する荘周の話。暁に胡蝶になった夢を見るが,醒めてみると胡蝶から自分に戻ったのか、胡蝶が荘周になったのか解らなくなってしまった。望帝は神話の中の皇帝。

  部下鼈霊に治水を命じておきながら、その妻と姦通してしまう。自らその不徳を羞じて隠遁した。「月明珠有涙」は、『文選』に「月満つれば即ち珠全く、月虧くれば珠闕く」の句がある。昔ある人が海底に宝石を求め、人魚が落とした涙を得た、それが真珠だという。藍田は陝西省にあり美玉を産する。これら美辞麗句は全て妻と暮らした往時への連想がかき立てるのだ。枯野を運ばれる楽器箱のレアリズムに比べ、こちらは浪漫に浸りきっている。

 

 

046


 白き巨船来たれり春は遠からじ         大野林火

 横浜の「港の見える丘」公園に林火のこの句碑が立っている。林火は一九〇四年、横浜の日ノ出町に生まれ横浜一中を出てから、母が金沢の出だったこともあって四高に学ぶ。東大経済学部を出て会社に就職するが、三年ほどでやめて後は横浜で戦後まで学校の教師を勤めた。学生時代から俳句を始め『石楠』に属したが、戦後自ら『濱』を主宰した。

 写生でありながら決して写生に止まらず、深い人間的な抒情を湛えた作品を詠んだ。林火の句風を人間的にさせたのは、一九三二年二十八歳の若さで、妻と長男を相次いで失うという不幸に見舞われた頃からであったという。人間探求派といわれた波郷・草田男・楸邨とも近い距離にあった。晩年、推されて俳人協会会長となる。

 林火の晩年の業績の中で、一九八〇年に俳句代表団団長として北京を訪れたことは特筆に価する。中国は当時文革の嵐から開放されて文芸復興を目指していた。この時、林火は基調講演で、「俳句は景を借りて情を詠む詩」だと語ったという。特段に詩詞の世界に理解があったと思われる。

  歓迎会の席上、中国側のホスト趙樸初翁は、五・七・五の三行詩を披露した。これが漢俳の始まりである。趙樸初の隣には、後に孫平化を扶けて中日友好協会副会長となり、今日まで両国の親善に努めた林林がいた。林林にとって林火の好意は忘れ得ぬものとなった。林火は林林の六歳年長である。林林が早稲田大学に留学したのは一九三三年、林火が妻子を失った頃と重なる。その後の両国の不幸な時代、そしてそれを乗り越えて、文芸復興の筋道を見出させてくれた林火に対して深い謝意を抱いていた。

 一九八四年林火が没した。後年林林は日本を訪問する機会を得たとき、港の見える丘に立つ林火の句碑に詣でて献花をしたのである。このときの五律がある。

   謁大野林火翁俳句碑 大野林火翁の俳句碑に謁す  林林

 花束碑頭献, 花束 碑頭に献ずるは,
 精誠一片心。 精誠 一片の心。
 幽思浮面影, 幽かに思えば 面影を浮かべ,
 静黙見詩魂。 静かに黙せば 詩魂に見ゆ。
 勝地生清趣, 勝地 清趣を生じ,
 高丘望港濱。 高丘 港濱を望む。
 白船来去后, 白船 来り去きて後,
 已度幾年春?  已に幾年の春ぞ 度りし?

碑面の俳句は「白船来去后,春天将不遠。」と註がある。即ち冒頭の句である。

「花束碑頭に献ずるは,精誠一片の心。」という首聯は実に感動的である。次の頷聯の虚と、頸聯の実が見事な対象を作って更に感動を盛り上げる。合聯の「白船の来去」とは、林火の俳句であると同時に、北京を訪れた林火を象徴している。まさに日中文化交流の美しい友情がここにある。背後に中華街を持つ国際都市横浜が、この「港の見える丘」での名詩を碑に刻んで、林火句碑と共に国際交流のランドマークとすることが望まれる。

 

047


  中空にとまらんとする落花かな       中村汀女

花の四月は日中両国を代表する女流詩人を取り上げてみたい。この句は漢詩人から見たら「これが詩か?」と疑うほどの断片に過ぎないかも知れない。しかし桜の落花に出会うと、日本人は惜春の情に浸る。「とまらんとする」花びらの気持ちは作者の心なのである。

この句は一九三五年(昭和十年)汀女三十五歳の作である。私事になるが、実は汀女は少女時代、筆者の母と熊本郊外の江津湖を中に相対して住み、第一高女に共に通った間柄だった。昭和十年代再び互いに世田谷に住んで行き来する関係になった。わが家へ来ると熊本弁丸出し。最初の句集『汀女句集』は筆者の亡父が出版を世話した。後に汀女は俳句界の大スターになるが、晩年になっても「書いてくれといわれるのは何時もこの頃の俳句よ。嫌ーねえ。」と笑っていた。まさに昭和十年は汀女の全盛期である。サラリーマンが引退すると光陰矢の如し。そんな年齢になって「止まらんとする落花」とは、単なる写生ではなく「時間よ止まれ」という作者の主観であったのかことが解ってくる。それを三十五歳の女盛りで苦もなく詠んでいた汀女の才能はやはり非凡というしかない。

桜に特別の感情を抱き、花見という習慣を持つ日本人の生活は、一般の外国人から見ると不思議な存在であるらしい。しかし漢俳を代表する『漢俳首選集』(1997年刊林岫主編)所載の三百首を見ると、桜を詠んだ漢俳が十一首も出てくる。やはり桜を知り桜が日本の国花であることを知った集団が漢俳をリードして来たといえよう。その中でも林岫女史の浜名湖での一首は名作である。桜花の雨は花吹雪であって「花の雨」ではない。

    日本浜名湖賞櫻 日本浜名湖桜を賞ず 林岫

  翠浪揺春嶼。         翠浪 春嶼を揺する。
  浅立疑忘煙火語,       しばらく立ち 煙火の語を忘れしかと疑わん,
  初試櫻花雨。         初めて試いし 桜花の雨。


 煙火の語とは台所のこと、すなわち日常の生活の意である。花吹雪に初めて出会った女性の感情がよく出ている。林岫女史は中国書法家協会副会長であり、わが国ではその面でよく知られている。二〇〇二年には葛飾吟社の招きで来日、成城大学で『中国短詩の現状』の講演会を行った時、この漢俳の制作過程を分析して見せた。女史は古典詩の名手だから、最初五言絶句に詠もうとしていた。それは「初試櫻花雨,疑忘煙火語。風来一快襟,翠浪揺春嶼。」というものであった。しかし転句が気に入らなかった。そこでこれを削り、起句と合句を入替え、中句の頭に浅立(しばらく立ち)を加えたら漢俳になったという。花吹雪が彼女にとって最初の経験であったと同時に漢俳もこれが第一作となった。

 生涯のうちに汀女と林岫という美貌の閨秀詩人に二人も親しく接触出来たのは望外の幸である。そういえば、二〇〇二年の講演の後、林岫女史を葛飾吟社会員一同でご案内して松島に旅行したとき、瑞巌寺門前で若き美貌の俳人、黛まどかさんにお会いしてご紹介したことがあった。林岫女史は年齢的には汀女とまどかの丁度中間に位置する女流詩人といえよう。漢俳学会副会長として益々のご活躍を期待したい。


 

048


48号

原稿未着

 

 

 

 

 

 

049


 もろどりの山深くゐて鑑真忌            矢島渚男

 鑑真は揚州の大明寺を発ち日本に渡ろうとして再三失敗の末、やっと鹿児島県の坊
津に辿り着き、奈良朝廷に迎えられて東大寺戒壇院や唐招提寺を開いた。鑑真が没し
たのは天平勝宝五年(西暦763年)、忌日は陰暦五月六日(現在の六月半ば)である。
 諸鳥(もろどり)は鑑真の徳を慕って緑濃い奈良の山深くいる鳥たちであろう。現
在唐招提寺は十年の歳月を掛けて平成の大修理を行っている。その間、同寺にある鑑
真像は東京国立博物館にも陳列された。乾漆を用いていたこの像が晩年の尊影を後世
に伝えた技術は出色だ。鑑真忌には唐招提寺で盛大な法要があるが、他の忌日と違っ
て鑑真忌がリアリティーを持つのは、人心に印象を刻んだこの彫像の存在によるとこ
ろが大きい。
 この像は鑑真八百年祭に際して揚州の大明寺に里帰りした。揚州は随の煬帝が開い
た南北運河が長江と結ばれる要衝にあり、明清時代もことに塩の運輸の根拠地とし
て、中国最大の利益を上げ殷賑を極めた。しかし中原の度重なる火災や戦乱の結果、
歴史を残す建物は殆ど残されていない。大明寺も近時再建されたもので、日本からの
浄財により唐招提寺を模した記念館が建てられ、鑑真像を模したレプリカが置かれて
いる。
 鑑真像の里帰りは中国仏教界に多大の感銘を与えた。漢俳の創始者でもある趙樸初
翁は仏教会会長としてこの交流に尽力した。里帰りが終わるに際し漢俳三首を詠んで
いる。

  送鑑真和尚返奈良  鑑真和尚の奈良に返るを送る   趙樸初
   一
 看盡杜鵑花, 看盡せり 杜鵑の花,
 不因隔海怨天涯, 海を隔てしに因る 天涯を怨まず,
 東西都是家。 東西 都て是家。
   二
 去住夏雲閑。 去るも住(とど)まるも 夏雲閑たり。
 招提灯共大明龕, 招提の灯と共に 大明の龕,
 双照泪痕干。 双び照らされて 涙痕乾かん。
   三
 萬緑正参天。 万緑 正に天に参(とど)く。
 好凭風月結来縁, 好く風月に凭って 来縁を結ばん,
 像教住人間。 像は人間(じんかん)に住まりて教う。

人間は「にんげん」ではなく社会のことである。「双照泪痕干」は杜甫の詩による
が、芭蕉の「若葉して御めの雫ぬぐはばや」を踏まえているのはいうまでもない。
 矢島渚男は一九三五年生まれ。長野県在住。石田波郷に師事、波郷没後は加藤楸邨
に師事した。表現の新鮮とともに、季語の復元開拓にも努めた。「姫はじめ」などと
いう、歳時記に無かった季語を、『西鶴一代男』から復活させたりしている。
  姫はじめ闇美しといひにけり          渚男

 

050


 夜明けまで雨吹く中や二つ星          内藤丈草

 太陽暦で七夕をやるのはおかしい。梅雨はまだ最盛期、雨空、曇り空は当り前だ。旧暦七月七日はすでに立秋過ぎだから星祭ができる。それでも雨降りのことはある。

 丈草はそれを七夕伝説のロマンと上手く結びつけた。牽牛と織女は年一回の会う瀬を、終夜風雨の中で過ごしたというのである。目に見えない世界を想像で描くのは詩人の特権だ。写生、写生といい過ぎると、雨で見えないときは詩が詠めなくなる。想像で詠むところに却ってロマンが生まれるのである。星は宇宙の彼方、雨雲と関係ないなどというなかれ。

 内藤丈草(1662-1704)は蕉門十哲の一人。尾張犬山藩の藩士。官を辞してから京都郊外の深草に住み、芭蕉に師事した。作風は蕉門の中でも高雅洒脱であった。率直な性格だったらしい。『去来抄』の中にこんな下りがある。去来の「電のかきまぜて行闇よかな」を回って、支考と丈草が下五は「闇よ」では座りが悪いから「田づら」か何かにしたらどうかという。今日でいう客観写生の薦めに近い。これに対して去来が「お前たちはこの句は電を詠んだと思っているであろう。そうではない。もともと闇を詠んだ句なのだ」という。すると丈草は「そこまでは気付かなかった」とあっさり自分の迂闊を認めている。丈草のそういう率直さが、冒頭句のようなロマンを詠む力を育てたと見ていいのではなかろうか。

 幻想といえば、中唐の詩人李賀は勝れた幻想を描く詩人だ。

七夕 李賀
 別浦今朝暗, 別れし浦 今朝暗く,
 羅帷午夜愁。 羅帷に 午夜愁う。
 鵲辞穿線月, 鵲は辞す 線を穿つ月,
 花入曝衣楼。 花は入る 衣を曝す楼。
 天上分金鏡, 天上 金鏡を分ち,
 人間望玉鉤。 人間 玉鉤を望む。
 銭塘蘇小小, 銭塘の 蘇小小,
 更値一年秋。 更に値(あ)てる 一年の秋を。

 蘇小小は南朝斉の名妓、西湖の湖畔に墓が残されている。嵯峨野の祇王寺には清盛の寵を受けた妓女の墓があってロマンを漂わせている。いずれも後世の人が作ったものだ等と詮索するのは、愚かな行為というべきであろう。全てを信じた方が、李賀のように勝れた詩を詠めるならその方がいい。

 この詩では一年に一度恋人同士が会える七夕は、別れた恋人に会えない蘇小小の怨み節の対象にされている。恋人と別れた水辺へ行っても暗い影が差しているだけである。五律は首聯から対句を用い、見事な展開を見せて行く。一字たりともも疎略な扱いがない。見事という他はない。「人間」は無論ニンゲンではない。ジンカン即ち「この世では」の意味である。『玉台新詠集』には蘇小小の詩と伝えられる五絶一首が残されている。

妾乗油壁車、郎騎青□馬。何処結同心、西陵松柏下。
□=總−糸+馬。

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